A. A. ファン・ルーラー/関口康訳
福音書記者の名前がつけられている受難曲(マタイ受難曲とヨハネ受難曲)の第一印象は奇妙なものかもしれない。一人の人、人間イエスの苦しみと死が多くの音楽にされ、歌われているからである!
しかしもし我々が、このテーマについて歌ったり演奏したりすることは芸術にとどまるものではないと考えるならば、今申し上げた点はもはや奇妙なものではなくなるであろう。教会はすべての時代の中で模範を示してきた。教会は受難週にも歌う。教会は救い主の苦しみと死についても歌う。教会がこのテーマについて歌うときの特徴は、正しい見方をするならば、その歌は明らかに悲しみの歌でも嘆きの歌でもないものである。
部分的に見れば、それはたしかに贖罪の歌ではある。しかし、実際に歌われているのは、キリストの受難そのものよりも、むしろそれ以上に、キリストの受難を必要とする過ちを犯している人間の行為である。そしてそれ以外の部分は、いずれにせよ明らかに喜びの歌である。我々は、苦しみのうちに死んだキリストをほめたたえる。我々はキリストが受けた傷とキリストの死を喜び楽しむ。
そのような歌がうたわれているところに入ると嫌な気分になる方がおられるのではないかと思う。我々の中の真のナチュラリスト、純粋に血に基づいて生きる人、咲きほこる自然の中で生きる人は良い思いを決して抱かないだろう。苦しみを歌い上げることなどはその人々の性分には合わないだろう。
しかし、これについては教会が間違いを犯しているわけではない。イエス御自身がエルサレムの女性たちに「あなたがたはわたしのために泣いてはならない」とお語りになったのだ。これがキリストの苦しみの特徴である。それは泣かれるべきでない苦しみである。だからこそイエスはゲツセマネに行かれる前、弟子たちと共に賛美歌(詩編 113編から118編まで)をお歌いになった。
そして、そのことは新約聖書全体が証言していることでもある。それは仲保者の聖なる受難と死についての福音である。それは良い知らせであり、喜びの知らせである。それだけではない。新約聖書はイエスの苦難と死だけではなく、もっと多くのことを証言している。たとえばイエスの復活も証言している。いずれにせよ新約聖書はイエスの生命を証言している。しかし、イエスの苦しみと死をも証言している。そして、新約聖書全体は押しなべてイエスの苦しみと死には救いの力があること、そしてだからこそそれは歌われるべきであることを証言している。
この福音は、何世紀もの間、我々ヨーロッパ人の心に働きかけてきた。そしてそれは、最も奇妙な一つのしわをのばすものであった。キリスト教の洗礼を受けた我々ヨーロッパ人は苦しみに対してどのような立場をとってきただろうか。一方に、我々の隣に仏教思想がある。仏教によると、存在は罪深いゆえに苦しむのであり、だからこそ我々は存在から救い出されなければならない。他方にイスラームの思想がある。イスラームにおいて苦しみは存在に付随するものであるが、それはただネガティヴなものと判断されうるものでしかない。二つの思想に共通しているのは、苦しみとは我々がそこから救い出されなければならないものであるという判断である。しかし、福音が我々の心に刻み付けることは、苦しみとはそれによって我々が救い出されるものである、ということである。そしてその場合、我々は苦しみによって存在から救い出されるのではない。むしろ、苦しみによって我々の存在それ自体がいわゆる罪から救い出される。
このように苦しみをポジティヴなものとして扱うことは福音が教える愛の本質的な要素である。愛はすべてを担い、すべてを覆う。そのようにパウロはコリントの信徒への手紙13章で語っている。愛は繰り返し、それ自体でポジティヴなものである。愛はすべてのうちに入り込む。第一印象的にはネガティヴに見えるものにも。堕落した人間世界の内側にさえも。そこに愛が入り込む。それこそが愛の本質でさえある。なぜなら、その愛は神の愛だからである。その愛がキリスト御自身だからである。キリストにおいて神は、堕落した人間世界の内側へと入り込んでくださった。だからこそ、愛はすべてを受け容れるのである。愛はすべてを包み容れる。神は苦しみさえも受け容れてくださり、包み容れてくださる。
愛は苦しみをも受け容れ、包み容れるものであると語るとき、問題の新約聖書的な核心に触れることになる。苦しみは人を救う力を持っている。苦しみにはなだめの意義があるからこそ、救いの力を持っている。しかし、この核心に触れるときに気づくことは、我々はここで一つのミステリーの前に立っているのだということである。核心に近づくとミステリーに近づくというのは、どんなことにも当てはまる。しかし、苦しみの福音においてこれはたしかに当てはまる。問題の核心は仲保者の聖なる苦しみと死によって罪のとがのなだめが起こる点である。しかしこの核心は、同時にミステリーでもある。とがのなだめが苦しみによって起こる。それはどのようにして起こるのだろうか。これを正確に語ることができる人がいるだろうか。
教会は、すべての時代を通してこの問題を考え、悩みぬいてきた。そして多くの思想的筋道が展開されてきた。たとえば次のように語られてきた。「この苦しみによって心が打ち壊され、愛へと心動かされる」。「すべての内面的なものが受容されることによって闇の力がへし折られる」。「神の義によって律法が成就した」。「キリストにあって神は、刑罰と審判を代理的に担ってくださることによって、罪ある人間の運命を連帯的に分け持ってくださった」。これらすべての思想的筋道には、それぞれに貴重な断片的な真理がある。しかし我々はこの問題についてどれほど長く悩みぬいたとしても、このミステリーを完全に正確に表現することはできそうもないと、常に感じてきた。
実を言えば、最も重要なことは、キリストの聖なる苦しみと死については我々が考えることではないし、よく考えて理解することでもないということである。最も重要なことは、我々自身が自分の人生を生き抜くことである。キリストの死のうちに命を見いだすことである。それによって我々自身がキリストの犠牲によって救われた者にならせていただくことである。生きることは考えることよりも尊いことである。
しかし、こんなふうに言うだけではまだ十分ではない。我々は人生をただ生き抜くだけであってはならない。人生を歌にしなければならない。歌は意識を超越したわざである。歌は言葉を越える。そしてまた、たしかに、歌は思想をも越える。歌の中でこそ我々は「キリストの苦しみと死こそが罪人の救いである」ということを最も良く表現することもできる。だからこそマタイ受難曲とヨハネ受難曲があること、そしてそれが受難週にこれほどまでに多く演奏され、歌われていることは奇妙なことではなく、むしろまさに事柄の本質を示している。
【出典】
A. A. van Ruler, Van schepping tot Koningrijk, Nederlands Dagblad, Barneveld, 2008, p. 181-184.