ユルゲン・モルトマン「ファン・ルーラー神学の現代的意義」(2008年)要約

モルトマン教授との記念写真(2008年12月10日 アムステルダム自由大学)

国際ファン・ルーラー学会講演集
『人は鉄棒で何度も大車輪を決めなければならない』(2009年)


ユルゲン・モルトマン「ファン・ルーラー神学の現代的意義」(2008年)要約

2008年12月10日 アムステルダム自由大学 国際ファン・ルーラー学会記念講演

要約・文責 関口 康


1. ファン・ルーラーとの出会いと「神の国」の視座

1951年、ゲッティンゲン大学で、恩師オットー・ウェーバーのもとでオランダ改革派教会の「信仰告白の基礎と展望」を学んでいた時のことです。ウェーバーがそれをドイツ語に翻訳したばかりでした。ここで私は初めてファン・ルーラーの名に出会い、魅了されました。

1934年のバルメン宣言第 1 条が「イエス・キリストは神の唯一の言葉である」と教えるのに対し、そのテキストには「地とその中にあるすべてのもの、地とその上に住むすべてのものは主のものである」という、広大な視野を持つ信仰告白があったからです。この「世界と大地に対する広大な向き合い方」が、それ以来ずっと私を形づくってきました。

1957年、ドイツのベントハイムで開催された神学会議で、私はファン・ルーラーの「キリストを宣べ伝え、神の国を宣べ伝える」という講演を聴きました。そこで私は彼から二つの重要な視点を学びました。

第一に、教会は単なる教会以上の存在であり、「世界における神の国」に関わるものであるということ。第二に、世界における神の国の最初の顕現は教会ではなく「イスラエル」であるということです。

この二つの点がどう結びつくのかは、ファン・ルーラーの名著『キリスト教会と旧約聖書』から学びました。神の国の終末論は、新約聖書だけでは完結せず、新約を超えて溢れ出す旧約聖書からの「約束の余剰(プラス)」から生じるのです。

当時の私は「組織神学において語るべきことはカール・バルトがすべて語り尽くした」と確信していましたが、ファン・ルーラーはこのようなバルトを正統とみなす立場の閉塞感から私を解放してくれました。「私たちはキリストを宣べ伝えるが、私たちが本当に意味しているのは神の国である」。神の究極の関心事は、教会ではなく、世界のキリスト教化であり、最終的には「創造が本来あるべき姿」へと到達することです。

彼は教会の宣教(アポストラート)の使命として、以下の 3 つを挙げています。

イスラエルとの対話(これは相手を説得してひとつの宗教にしてしまうような「宗教間対話」とは全く異なります)

福音の普及(宣教)

世俗のキリスト教化(ケルステニング:Kerstening)

この「キリスト教化」とは、教会が世界を支配することではなく、人類や被造物全体を人間化し、国家の絶対化(神聖視)を解体することです。たとえば、キリスト教の「善きサマリア人」の思想が、国連における「援助義務違反(ジェノサイドへの介入義務)」という普遍的な権利へと昇華されたように。

1966年、私の著書『希望の神学』のオランダ語版が出版された際、ファン・ルーラーは「私たちは今や、まるでひとつのお腹のうえに置かれた両手(完全に意気投合した同志)のようだ」という手紙をくれました。私たちは互いの家を行き来する深い親交を結びましたが、晩年にはその「両手」は重ならなくなっていました。それについては最後に触れます。

2. キリストは私たちの生活における神の「形態(ゲシュタルト)」である

ファン・ルーラーの神学において「ゲシュタルト(形態・姿)」は重要な鍵概念です。

彼は、すべての生活領域(制度や共同体)のキリスト教化を語るにあたり、聖書的・宗教改革的な視点を、カトリックと再洗礼派(アナバプテスト)の両極から明確に区別しました。

カトリックの聖化は、自然から超自然へ、地上から天へ向かう「垂直の階層的上昇」です。

再洗礼派は、この世を完全に悪とみなし、世界から分離(ディアスタシス)して全く別の「新しい現実(引きこもり)」を目指します。これでは、残された世界に希望がありません。

しかし、ファン・ルーラーの改革派的な視点では、人は神に向かって天へと逃避するのではなく、「この地上で、水平に、時間の中で神の御前に生きる」ことを目指します。剣をただ捨てる(分離)のではなく、剣を鋤へと打ち直し、この暴力的な世界を正義と平和の世界へと「変容(ペリコレーシス=相互交流、相互浸透)」させなければなりません。これこそが地上における神の国の方向性です。

この「キリストの姿(ゲシュタルト)が現実の人間社会の中に形を成していく」という思想は、ナチスに抵抗したディートリヒ・ボンヘッファーの『倫理』におけるヴィジョンと驚くほど一致しています。

3. 神政政治(テオクラシー)と民主主義

ファン・ルーラーは「神政政治(テオクラシー)」というやや誤解を招きやすい言葉をあえて使いました。一般的に神政政治(テオクラシー)といえば、宗教指導者による独裁を思い浮かべますが、彼の意図はその「正反対」です。

天と地の支配権が「神のみ」に属するならば、地上のいかなる人間(皇帝、総統、独裁者)からも絶対的な支配権は剥奪されます。つまり「改革派の神政政治」とは、ローマ皇帝崇拝の終焉であり、絶対主義の終焉、独裁の終焉を意味するのです。

国家を悪魔化し神格化する「全体主義」に対する絶対的な抵抗権を正当化したのが、この神政政治の思想でした。そしてこれが、アメリカ独立宣言などのカルヴァン主義的な契約神学を経て、現代の「民主主義」を基礎づける思想となりました。ファン・ルーラーにとって国家は、キリスト教化と民主化の対象であると同時に、「神と人が最も近い距離で関わる場」でもありました。

4. アーノルド・ファン・ルーラーとの批判的対決(決別)

私とファン・ルーラーの決定的な決裂は、終末における「国家と教会」をめぐる議論で表面化しました。

ファン・ルーラーは「終末において教会は消え去るが、国家の秩序は神の国に残る」と考えました。彼は税金を聖餐式のように喜んで納めていたほどです。しかし私は「教会は残るが、国家は消え去る」と考えました。若い頃、ドイツ国家の戦争政策に巻き込まれ、国家の悪魔性を骨の髄まで味わった私にとって、国家は「神と人が最も近い場所」ではなく、むしろ捕虜収容所での教会の交わりの中に、神を見出したからです。

より深刻な神学的対立は「キリストの受肉」の解釈でした。

ファン・ルーラーにとって、キリストが地上に来たのは、人間の「罪」という危機的状況に対する神の「緊急措置(応急手当:Notmaßnahme)」に過ぎませんでした。したがって、罪の問題が解決し神の国が完成した暁には、仲介者としてのキリストは役割を終え、退場すべきだと考えました。「栄光の王国を清く保つには、そこにキリスト論を持ち込んではならない」と。

しかし私にとって、キリストの到来は単なる「罪の後始末(必要最小限の措置)」ではありません。パウロが「罪が増し加わるところには、恵みはなおいっそう(はるかに豊かに)満ちあふれた」と語るように、キリストの受肉と復活は、初めの創造の完成へと向かう「宇宙的キリスト論(万物の新たな創造)」の始まりです。

ファン・ルーラーの考えは、極端なアンセルムス主義(罪の贖いのみに焦点を当てる堕落後予定説)です。私はアンセルムスの代償的満足説(贖罪論)を「非聖書的」であるとして退けます。それはキリストの復活を欠いた犠牲の神学にすぎず、実際の罪が赦されたとしても「人間が再び罪を犯す可能性」を排除できないからです。

もしキリストの救済が、人間をアダムの堕落前の状態に戻すだけの「緊急措置」にすぎないのだとすれば、神の国においてもまた次の堕落が始まり、歴史の悲劇的な車輪がむなしく空回りし続けることになってしまうでしょう。だからこそ、私にとってキリストの復活の光に照らされた「宇宙的受肉」が不可欠なのです。ここで、私たちの道は完全に分かれました。

5. 何が残るのか? ── ファン・ルーラーへの感謝

それでも、ユトレヒトのこの情熱的な神学精神から私が受けた恩義は計り知れません。

何よりもまず、彼から学んだのは「神学的思考の喜び(遊び心)」です。

ファン・ルーラーはかつて、講演をこう切り出しました。「私はバラの香りを嗅ぎ、そして神の国の香りを嗅ぐ」

ゲッティンゲンやバーゼルの厳格なドイツ神学界で、こんな言葉を聞いたことは一度もありませんでした。栄光の神の国における「新しい創造」は、決して観念的なものではなく、五感で嗅ぎ、味わい、感じることができる、圧倒的な物質性と生命力に満ちているのです。

彼から学んだもうひとつのことは、「問いを最後まで徹底して問い続ける、粘り強さ」です。これによって、神学は常に「旅人の神学(theologia viatorum)」となり、私たちのあらゆる探求は「終末論(神の国の完成)」へと行き着くのです。

ファン・ルーラーは私を「神の支配」という広大な領域へと連れ出してくれました。彼が私に遺してくれたものは、聖霊が見る「神の国の夢」と、イエス・キリストという「具体的な姿(ゲシュタルト)」の二つに他なりません。

底本

Jürgen Moltmann, Gestaltwerdung Christi in der Welt. Zur aktuellen Bedeutung der Theologie Arnold van Rulers. In: Dirk van Keulen, George Harinck, Gijsbert van den Brink (Red.), Men moet telkens opnieuw de reuzenzwaai aan de rekstok maken, Verder met van Ruler, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2009, P. 113-125.