はじめに
1969年9月5日、私はルンテレンで開催されたオランダ改革主義学生会の同窓会の会合で「家庭内戦争の終結」という題の講演を行った。講演はオランダ国内の二つの改革派教会(Nederlandse Hervormde KerkとGereformeerde Kerken in Nederlands)の関係の問題、両教派の二十世紀以内の統合は不可避的であるという問題に及ぶものであった。その場合にいつも起こる問題の一つは、戒規(leertucht)の問題である。その関連で私は「改革派の右翼には異端が潜んでいる。彼らの横に立つとリベラル派の異端が児戯に見える」という自説をうっかり披瀝してしまった。この発言が短い解説付きで『教会と神学』の第21巻(1970年1月)7~8ページに掲載された。それがなんとも派手で挑戦的な扱いだったので、『ヴァーペンフェルト』 編集部の関心を引くものとなった。同誌編集部が常に注目していたのは、同じような意見が『なぜ私は教会に通うのか』 という私の本の173ページにも見られるということだった。そこに私は次の問いを書いた。「しかし我々は、罪深い人間存在についての純粋な教えをどこに見いだすのだろうか」。そして答えとして加えたのはこれである。「とにかくその教えを見いだせるのは改革派プロテスタンティズムの右翼のところではない!」。編集部が問いかけてくださったのは、この命題をもう少し詳しく言うとどういうことになるのでしょうかということであった。それで思い至ったことは、この依頼に私は応えなければならないということであった。我々は、このような言葉を思いつきで言ったまま放置することはできない。そういうやり方は、軽率な当てこすりのように思われてしまう。また我々は自分自身を一つの思想世界へと結びつけることをしないで、こういう言葉を語ってはならない。我々がそれと認めるすべての異端を一列に並べてみることは、よいことである。それが透明性に仕えるやり方である。
とはいえ、我々が愛する霊的潮流についてこれほど悪く言わなければならないのは悲しいことである。改革派信仰は最も美しく最も豊かな公同的キリスト教の形態である。ウルトラ改革派は改革派的クオリティのすべてを備えている。私はウルトラ改革派の人々もそうであると考えている。彼らは私の最愛の人々である。彼らは実存の深みを比類なき仕方で味わっている。典型的な実存主義者などは彼らに比べればブルジョア人間のサロン的体験主義にすぎない。ウルトラ改革派は真面目に生きている。そのことについては深い尊敬の念を持たなければならない。彼らはすべてを絶対的な口調で語る。その点で彼らはパスカルやキルケゴールに似ている。彼らの最も重要な代表者たちが示す誠実さと心の広さ、その幅広い、あらゆるものを包容する寛大さは、感動なくして見ることができないものである。
それゆえ、私は、ウルトラ改革派を賛美する歌をいつまでも歌いつづけることさえできる。しかしそれは、今私が果たすべき務めではない。私は彼らの異端性について語らねばならない。彼らの凄まじい異端性についてである。彼らに比べれば、リベラル派の異端はまるで子供の遊びである。数年前、私は改革派牧師会の会合で「体験主義の光の面と影の面」という題の講演を行った(『教会と神学』、第5巻、1954年、131~147ページに掲載)。その仕事をやり遂げた後に強く感じたことは、光の面が非常に鮮明に浮かび上がってきたということと、影の面がまさに一面的に影の中にとどまり続けているということであった。しかし、今それを修正したい。私は今、体験主義の中にある一定の影の面だけではなく、ウルトラ改革派の体験主義の中にある一定の異端を指し示すことに、より明瞭に自己限定したい。我々はこの最も重要な霊的潮流の無価値な面〔onwaarden〕(影の面)だけでなく、(あまりにもひどい)虚偽の面〔onwaarheden〕(異端)をも持っている。
しかし、私は何も異端狩りをしたいわけではない。1969年9月の講演において私が注意を向けさせたのは、次のことにすぎなかった。すなわち、我々が戒規を開始するときには、左側の異端のことだけではなく右側の異端のことについても考えねばならないということ。しかしそのとき大切な体を切りつけられるかもしれない恐怖におそわれるということ。我々はこのことを考慮して戒規の問題について考えるのを遠慮している面もある、と述べたにすぎなかった。
とはいえ、「異端」について語ることは時代遅れなのだろうか。すべてが等しく真実だろうか。そもそも真理が問題になっているのだろうか。我々は互いに愛し合うべきではないのだろうか。教会的に翻訳しなおすならば、我々はエキュメニカルな開かれた態度と団結心とをもって共に生きるべきではないのだろうか。そのことを我々は今では至るところで耳にする。その際に注目すべきことは、右翼の人々のモチーフや内容に則って語りたがる人々、とくに(教会的・神学的意味の)ウルトラ右翼の人々のモチーフと内容に則って語りたがる人々は、珍しいほどにほんのわずかしか開かれた態度を持ち合わせていない、ということである。彼らはそのような感覚器官を持ち合わせていない。彼らはどこに問題があるのかということを全く理解さえしていない。我々はオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の中で改革派同盟(Gereformeerde Bond)に反対する中道正統派(midden-orthodoxen)の態度を目の当たりにしている。これはもっと恥ずべきことを犯している。ウルトラ改革派の異端たちがあまり大げさに語らないことには理由がある。彼らはあまりにも埋もれた〔人目につかないために見落とされる〕グループを形成しているからである。我々は「黒靴下教会」(zwarte-kousen-gemeente)を、ただ単に笑い者にするか、軽蔑し、厳しく裁くだけである。
しかし私は、この考察を、また問いかけられたことについて説明することを、思いとどまるわけには行かない。真理とは一事か万事かというようなものではありえない(真実は重要であり、また真実こそが事実である!)。とはいえ、我々がすることは彼らに大量の散弾を放つことでもありえない。我々は彼らと闘い続けるべきである。もはや真理問題を持ち出すべきでないというなら、すべてのエキュメニカルな仕事はむなしいものになる。真理問題を正しく持ち出すならば、そのとき我々は異端を宣告し、譴責する勇気をも持たなければならない。まさにそのとき我々は本来的な事柄に取り組んでいる。それは愛である。少なくとも福音とキリスト教信仰の意味での愛である。
1、隠蔽
「リベラリズムの異端などは、ウルトラ改革派の異端に比べれば、子どもの遊びである」という私の命題は、第一に、ウルトラ改革派の異端は真の敬虔と純粋なる正統主義のマントをまとって登場しがちであるという、いくらか形式的な留意点を根拠にしている。ウルトラ改革派は〔政治的〕右翼とは無関係である。彼らは、常に右寄りであろうとする人々である。〔政治的に〕右翼であることには決して満足しない。右寄りであればあるほど素晴らしいと思っている。言うならば、考え方と生き方において右寄りであればあるほど素晴らしいと思いこんでいる。
そのことは、実を言うと、左翼の場合にも当てはまる。我々は、今日、それを政治の中に、あの悪名高き社会参加(アンガージュマン)の中に見いだす。人がひとたび「サヨク」を名乗る勇気を抱く。すると、たちまち、抑えきれないほどの勢いで、ラディカルな左翼として考え、語るようになってしまいがちである。そして、ついには絶対的民主主義者のようになる。ところが、それは、実際には無政府主義(アナーキズム)であることが分かる。民主主義が無政府主義に取り込まれている。そこに左翼の明らかな限界がある。彼らはそこで、急激に右翼的なものへと変貌する。無政府主義的な少人数の集団が強固な独裁制を喜んで打ち立てる。そのような事例が教会や神学の中にもあることを、我々は知っている。すっかりリベラル派になってしまった人、結局リベラル派になった人は、もはやキリスト論(キリストについての教説)を維持することができない。キリスト教的な要素を取り除くことが純粋なリベラリズムの仕事であるということに、彼らは気づく。
左翼に限界があるように、右翼にも明らかに限界がある。常に実際上の右にいれば、そこが必ず右になるというのは、外見上のことにすぎず、目の錯覚にすぎない。正統主義はハイパー正統主義にもなりうる。ハイパー正統主義には良い面がたくさんある。最悪というほどではない。悪いことは、ハイパー正統主義はなんら正統的ではないということである。彼らはキリスト教の限界を超えてしまっている。そのうち私は、そのことを、文書をもって証明したいと願っている。
しかし、ウルトラ右翼のこの右翼的外見、ハイパー正統主義の正統的外見が、我々を激しく騙す。知らぬ間に我々は、彼らの影響を深く受けている。ウルトラ改革派は、全く真正な改革派である!彼らは全く首尾一貫している!彼らは物事に対して非常に真面目に関わっている!彼らは永遠の堕落か永遠の救いかという一枚のカードに一切の命運を賭けている!このように語ることは、我々を「黒靴下教会」(zwarte- kousen- gemeente)の仲間に加えることを意味しているわけではない。あれは我々にとってはあまりにも息苦しい。文化的・道徳的に息がつまってしまう。しかし、彼らは、たしかに真の右派であり、真の正統派であり、真の改革派である。この点で我々があえて批判的に語るべきことは、ほとんどない。
この点でリベラル派はたいてい違っていた。たいてい彼らは自分は何者であるかを公表してきた。彼らはリベラル派(vrijzinnig)を名乗ってきた。その意味は常に、「正統主義ではない」(niet-orthodox)ということだった。彼らは、教義とか教会の信仰告白のようなものとは明らかに馬が合わない。そのような言葉にだけは近づかない。リベラル派の側においては、正統主義と正統主義者に対する明らかな反感や敵意や憎悪が語られることさえある。リベラル派の人々は、たいてい、洗練されていて、親切で、信頼できる人物である場合が多い。ところが、正統主義に立ち向かう場面での彼らの態度には、熱狂的で憎悪に満ちたものがある。その原因はおそらく、彼らが過去に味わった何らかの体験にあるのだろう。
この点が、やはり、ウルトラ改革派とリベラル派との大きな差をつくる。ウルトラ改革派の人々は、正統主義と真の内面的な敬虔性の旗のもとで航海する。彼らの船の積荷は、教義の根本構造に全く対立する異端である。しかし、教義そのものは高くマストの上ではためき続けている。それに対して、リベラル派の人々はこの旗を引きずりおろす。彼らの船の積荷は、教会の教義と競い合う十分な異端である。彼らは三位一体、受肉、贖いの犠牲、復活、サクラメント、予定などを問題にする。リベラリズムの中にまだ残っている教会の教義は何だろうか〔もはや何も残っていないのではないかと思うほどである〕。ところが、リベラル派の人々は、代々の教会が教えてきたのとは対立することを彼らが教えているということを公然と述べる。
リベラル派の人々がキリスト者という名に奇妙なほど頑固にこだわりを持っていることは、おそらく理解しうることである。ところが、彼らが同じように教会に対しても非常に頑固にこだわりを持っていることは全く理解できない。教会は代々の教会である。教会は、生けるキリスト(!)の体としての教会(!)として、自らの信仰告白を持っている。教会が正統的なのであって、教会の中の一グループだけが正統的であるわけではない。どうしたらリベラル派が教会に頑固にこだわることができるのだろうか。彼らは教会を悪用しているのではないだろうか。
しかし、それこそが彼らのやり方である。おそらく彼らはアンフェアなことを行っている。ところが彼らはそれをフェアな方法で行うのである。彼らは自分たちの船の積荷は異端であるということを公言する。そういうことをウルトラ改革派の人々はしない。正反対である。いつだって彼らは、「我々は、まさに真正なる正統の道を示している、正しい教会である」と主張するのである。
この点が彼らの異端性を手に負えないものにする。我々は、彼らが純粋に改革派的な真理であると言って公表してきたことは、なんら改革派的ではないばかりか、もはやキリスト教でさえないということに気づき、公的に宣言するために、あらゆることを鋭く見つめ、事柄の本質を深く見抜き、相当な分量の霊的勇気を集めなければならない。隠れた異端は、たいていの場合、露骨な異端よりも危険である。それは、しばしば、より深刻な異端である。言葉のキリスト教的意味での霊的生活は、ひどく蝕まれ、結局は破綻してしまう。
2、キリスト小僧
しかし、我々は、この「露骨である」か、それとも「隠れている」かという、いくらか形式的な問題を扱うのは、もうこれくらいにしよう。もっと実質的な問題のほうに向きを変えていくことにしよう。これまで私がたしかに主張してきたことは、ウルトラ改革派の生い茂った草むらには、なんとひどい異端の毒蛇が隠れている、ということであった。ただ、この主張は、実証されるべきことでもある。
そこで私は、一人の老牧師がお話しくださったことから出発することにする。これは、我々夫婦がこの牧師夫妻宅を訪問したときに伺った話である。この先生は、オランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の改革派同盟(Gereformeerde Bond)の教会で働いておられた方である。当然我々は、先生の仕事や教会のことに話題が及んだ。先生が教えてくださったのは、ひどく深刻なウルトラ教会員たちが先生のことを「このキリスト小僧」と呼ばわったという話である。それは、この先生が外的召命(vocatio externa)と称される純粋に改革派的な説教の構造を固く守ることを習慣としておられたことを指して言われたことであるという。この構造は証言(testimonium)・委任(mandatum)・約束(promissio)という見事な三要素から成り立っている。「証言」とは、御言葉の奉仕者が救いの証言を手渡すことを意味する。救いとは何であると彼が語り、そして、それは実際に起こることなのだと語ることである。それは、かつて一度、それを最後に、獲得され、贈られたものである。「委任」とは、この救いを信仰において受け取り、迎え入れるために、すべての人間は召されている、というのが神の御心なのだと、御言葉の奉仕者が語ることを意味する。そのとおり、すべての人は、彼らに神の御心を命じ、委任する人々から召されているだけではない。信仰の服従において神がお与えくださるすべてのものを自分自身のところまで届くようにし、自分自身が受け入れる。そのために御霊が絶えず根気強く心の扉を叩くために立っておられる。眠れる王妃を起こすために、王子が城門の外で笛を吹く。外的召命(vocatio externa)は、すべての壁を通り抜けて進入し、内的召命(vocatio interna)になることを欲する。「約束」とは、全き救いとしての救いを信仰において受け取り、迎え入れた人々には、永遠の聖定に基づいて、彼らに与えられる永遠の祝福がまさに確かな現実として可能となるのだ、ということを意味する。
私は、この老教師はそのように純粋に改革派的な説教をなさったのだと、確信をもって言い張るつもりはない。しかし、いずれにせよ大体このあたりに着陸なさった。私にとっては、かの有名な〔ウィリアム・パーキンスの〕黄金の鎖 などは、この三要素よりも美しいものではない。我々は一方の側にも他方の側にも傾いてはならない。我々は説教壇から次のように語ってはならない。「皆さん、全き救いは十分に成就されました。それゆえ、私はあなたがたに宣言します。あなたがたすべての人は救われているのです」。そのとき問題になっているのは、純粋にキリスト論的な事柄である。しかし、我々は、次のようにも語ってはならない。「皆さん、全き救いは十分に成就されました。しかし、あなたがたは燃え上がってはなりません。なぜなら、救いとは、ただ選ばれた者たちのためだけに起こることだからです」。ここで問題になっていることは純粋に聖霊論的な事柄である。しかし同時にこのきわめて一面的で貧弱なやり方には問題がある。上記の三要素は、両方の偏った立場に陥ることから我々を守ってくれる。キリスト論的な事柄が全面的に引き出される。それは、歴史的キリストの歴史的みわざにおける歴史的救いを指し示す。聖霊論的な事柄もまた、全面的に引き出される。それが、御霊が人間の心に働きかけてくださるための方法を命令し、約束する。問題は、私はこの方法を専有してもよいかという点や、私はそれを専有すべきかという点にあるのではない。問題は、主なる神が御言葉の奉仕者の口を通して私にお命じになることを、私が神の御心とすべきかという点にある。
さて、大体このように老教師は説教なさった。ところが、深刻なウルトラ教会員たちは、人を哀れみ、小馬鹿にするような目で見くだした。彼らは地面につばを吐き、言った。「ちぇ、またかよ、このキリスト小僧が」。しかし、我々の牧師は、キリストとこの方にある救いに常に留まっておられた。先生は外なるものへと留まっておられた。我々は、歴史的キリストとどのように関わっているのだろうか。我々は、ベツレヘムでお生まれになり、ゴルゴタで死なれたお方とどのように関わっているのだろうか。歴史的キリストは、ともかくひとたび、内なるキリストにならなくてはならない。キリストは、我々の心の中でお生まれにならなければならない。心の中で、このお方が死んでくださり、復活してくださらなければならない。それが、そしてそれだけが真の救いである。このこと自体については、もちろん、この表現やこれと同種の表現を、全く肯定的な意味で語ることができる。これらの表現は人格的で主体的な適用と、客観的なものを私のものにすること(toeëigening)と、歴史的な救いとを指し示している。適用と私のものにすること(toeëigening)は、歴史的キリストの受肉、十字架の贖い、復活と同じく、力強い出来事である。そこでも、同じようなことが起こる。全く同じというわけではない。我々は、キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的で内容的な差異を過小評価してはならない。しかし、構造的によく似たことが起こる。
ところが、これらの表現に歴史的なキリストとこの方の歴史的なみわざとにおける歴史的な救いに対するなんらかの軽蔑が付随してくるや否や、純粋な正統主義の人は、考えうるかぎり最悪の異端の一派に陥っている。彼らが完全な深みに陥っているときには、内面的なキリストだけを語っているわけではない。内面的なキリストを語っているようで、いつの間にか、永遠のキリストを語っている。時間的要素がすっかり抜け落ちてしまう。その人は、永遠の聖定の中にいるようにだけ、自分自身を体験する。すべての時代の神秘思想において内面性は常に永遠性と婚姻関係にあった。しかしキリスト教と共にこの婚姻関係は解消された。歴史的要素は(理性的精神にとっては)大きな弱点であるが、キリスト教信仰の(歴史的意識にとっては)最高の栄光である。グノーシス主義は、そこでいつも躓く。グノーシス主義は常に極端なキリスト教であろうとしたが、まさにそのようなものとしてグノーシス主義は、それによってすべての時代のキリスト教信仰を最もひどく悩ましてきた敵である。グノーシス主義者は、歴史的なものを超克することを欲する。彼らは、使徒的福音の権威に聴き従い、それに拠り頼むという単純な信仰を超克する、最高の正しい霊的認識を欲する。真理の裏側にある真理を知りたいと、彼らは欲する。
私は、ウルトラ改革派は明白なグノーシス主義であると語り、彼らこそが考えうるかぎり最悪の異端であると糾弾することについては何の躊躇もない。そのようなものとして彼らは、キリスト教界から身を引かざるをえなくなる。代々の公同教会の純粋な正統主義と彼らは、何の関係もない。救いを究極的に自分自身の外側に――歴史的事物の中で栄光化されたキリストのうちに――(少なくとも現時点で)見出さない人は、もはやキリスト者ではない。キリスト者の背後に救いがある。キリスト者は、救いに基づいて生きている。救いのうちに生きており、この私のうちに救いがある。
これと比べれば、リベラル派の異端は、事実上、子どもの遊びである。彼らは常に――全く欠陥だらけの貧弱な方法であるとはいえ――救いの中心としての史的イエスを指し示してきた。彼らが史的イエスのことを純粋な諸概念の教師であるとか、真の生活知の教師であるとか、純粋な道徳的生活規範の教師であると見るのは、よいことである。彼らが仲保者としてのイエスと模範としてのイエスの間に常軌を逸した対比を設けた上で、史的イエスのことを単なる模範、あるいは特別な模範であると見るのは、よいことである。たとえ模範という語の意味が(我々はこのお方に追従しなければならないという)純粋に基準的な意味であれ、(このお方から、我々を救い出し、我々を導いていただける力が生じるという)救拯的な意味であれ。
彼らは間違いなく、深刻な方法で使徒的福音を傷つけている。いずれにせよ彼らは、正当化も容認もできないような方法で新約聖書を矮小化している。しかし、それでも彼らは、イエスの御名を呼び続けている。キリスト教の事実上のすべてが、この点にかかっている。
3、予定理念からの論理的演繹
ウルトラ改革派のグノーシス主義的性格は、ある方法によって常に繰り返し隠蔽が行われる。その方法は、ウルトラ改革派の人々が前代未聞の激しさをもって取り組む、偉大な改革派的真理としての予定論である。それは十分な意味での、すなわちドルト教理規準的な意味での二重予定論である。今ここで、この真理についての解説をするつもりはない。私の考えでは、予定論は、人間存在についての洞察としてこれまでに見いだされた中で最も深いものである。それはカルヴァンとドルトレヒトの教父たちに栄誉を授け、霊的な勇気と力をもたらした。また、この真理が霊的存在にもたらす緊張はどれほど大きなものでありうるかについても徹底的に語られ、広げられてきた。アウグスティヌスは、最後のところでいつも躊躇を持っていた。ルターは、最終的には後ずさりし、沈黙してしまった。
二重予定の真理と事実は、経験的に捜し求めることができるものである。ある人にとっては、若いときから死の日に至るまで、福音が全く問題にならない。福音は彼に何も語らない。彼は生ける屍のように見える。彼はこの光によって目がくらむばかりである。恵みが彼の心をかたくなにしたのである。同じ家族の中の他の人は、彼の全存在の、心と体の全繊維をもって、子どもの頃から死に至るまで、まるで釘と磁石のように預言者たちと使徒たちの証言に張り付いて離れない。彼が簡単に引き離されることはありえない。彼は福音と信仰に対抗する幾千もの学問的・哲学的な反対や議論を知っている。しかし、すべては去り行く。救いの力が、まるで魔法のように留まり続けるのである。
また、予定の真理は聖書から読み取られたとおりの事柄でもある。生ける神は意志され、行為される神である。神は歴史によって選びと遺棄を実行される。遺棄の教理はあまり、あるいは全く聖書の中には見いだされないかもしれない。教理的な事柄である。教義は必ずしも聖書に立っていないことがある。しかし、果たして我々は、二重予定論の道筋の上で考えていくことなしに、聖書の十全な内容を実際に把握することができるのだろうか。
この経験的側面と聖書的側面の他に、論理的側面が、予定の教義の形成においては常に役割を果たしてきた。選ばれているということがあるのだとしたら、選ばれていないということもあるのではないだろうか。そのような聖書的な一組のペアがあるのではないだろうか。選びの概念は、常にもう一つの概念と共に語られるべきものではないだろうか。そして、選ばれていないということは、遺棄されていると言い換えるところまで突き詰めて考えることができるのではないだろうか。この遺棄という表現をあらゆる暴力をもって回避したいと欲することは、卑怯なやり方ではないだろうか。
このようにして初めて、十分な意味での二重予定論となるのである!それは真理であり事実であるところの二重の予定である。ところが、J. G. ヴェールデリンクは、ウルトラ改革派の人々が予定の真理(waarheid van de predestinatie)を予定の理念(predestinatie-idee)へと取り替えたことに衆目の注意を促した。これはおそらく不適切な表現である。実際ヴェールデリンク自身は、この問題に関する続編の研究書においては、奇妙な不可知論的な闇の中に予定を見出すに至ってしまっている。とはいえ、ヴェールデリンクは、真理としての予定と理念としての予定との区別をしてくれたことにおいて――深い洞察力を持つ多くの神学者たちの場合と同様――我々に価値あるヒントを与えてくれた、と言ってよいだろう。
我々は予定の真理と事実を、身震いと驚愕とをもって見つめ、認識し、信じている。ところが、それが理念に置き換えられるときには事柄の本質から出発することになる。それは原理になる。その原理から論理的推論という道を通って全体系を演繹するのである。予定の理念が体系の下部構造を支配する。そうなると無意識のうちに我々は、人間は(今や人間はその原理を見いだした者である)全体系を完成させ、閉じることができる、という仮定のもとに生きている。
最も悪い点は何だろうか。「閉じた体系」を考え出すことだろうか。一度考えたことを別様に考え直そうとするところだろうか。論理的推論の道を通って歩き回ることだろうか。考える人間は悪いものを手に入れる、という点だろうか。それとも、予定の真理を論理的体系の原理にしてしまうことだろうか。
最後の点には問題の核心がたしかにありうるだろう。その人は、思想的に硬直している。存在を忘れている。事実を忘れている。福音を忘れている。福音が宣べ伝えられているということを忘れており、そしてまた、救いが全き十全性において全人類の前に現に存在するものとして差し出されているということを、忘れている。そのところで――すなわち、生きている存在の生起する事実と、宣べ伝えられた福音とにおいて――まさにそのところで、人の理解を超えて、謎めいた仕方で二重の予定が行われる。人間は全き事実において選ばれもし、棄てられもする。ウプケ・ノールトマンスと共に、「神はいちばん最後の瞬間に、永遠のご決意をなさるのだ」と語る。
もちろん我々は、これらのことを越えて考え続けることができる。機会あれば、二重予定論を出発点にすることもできる。二重予定論からすべての事柄を考え抜いていくことができる。そのとき、二重予定論は原理にさえなるのであり、そこから楽々と(神学は遊びでもあるのだが)論理的体系を演繹していく。しかし、それ以上に与えられていることについて、我々は、同じように何をすることができ、何を許し、何をなすべきだろうか。一体我々は「予定論的神学」というようなものだけを作り上げて、それで何を望むのだろうか。同様に我々は、その裏面の「三位一体論的神学」を持たねばならないのではないだろうか。また、その対極の「歴史的・終末論的神学」を、さらにまた「神の国の神学」をも持たねばならないのではないだろうか。あるいは同じく重要なものとして「キリスト論的・聖霊論的神学」をも持たねばならないのではないだろうか。「罪の神学」を含む「創造の神学」も必要ではないだろうか。
キリスト教には、人を夢中にするものがある。ただし、それはキリスト教の原理ではない。多くのものが同時にある。このことが教えているのは次のことである。すなわち、どれほど多くの論理的思考方法を踏破したとしても、ばらばらの教説(loci)を正しく並べるための最善の順序を見いだすことは不可能であるということである。一つの原理から「閉じた体系」を構築することは可能であると考えるのは、もうやめようではないか。もちろん、我々は探究しなければならない。それと共に体系を考えなければならない。しかし、その体系を我々自身が見いだしたものであるかのように考えるべきではない。我々が見いだすよりも前に、福音自身があまりにも豊かであり、あまりにも多くの枝を張りめぐらしていた。
大胆に言えば、論理は歴史的福音によって破壊されなければならない。歴史的福音は我々を、救いと存在の多面的で把握不可能な事実の中へと引きこむのである。福音は、少なくとも罪人である者にとっては想像する以上に事実そのものである。
そのことにウルトラ改革派の人々は、しばしば気づいていない。彼らは福音を論理に置き換える。彼らは、もっぱら永遠の二重予定という観点から、一切のことを考え抜く。そのときに起こることは、当然のことながら、彼らが語ることのすべてが非常に似かよったものになるということである。歴史的キリストの一切、伝統における救いの仲保性の一切、福音と教会との外面性の一切、人間の主体性の一切。これら一切合財が二重予定の地獄の火を怖れる。「永遠の聖定」という一つの事柄に一切が押しとどめられてしまう。
哲学者、とくにヘーゲル系の哲学者は、その中でわが家にいるような居心地良さを驚くほど感じることができるであろう。しかしそれは、キリスト教的に言えば危険なことである。教会を哲学の教室にしてしまうべきではない。そのようなことを、ウルトラ改革派の人々が行っている。例えて言えば、説教の中でそれが提供されているかどうかでその説教が誠実なものであるかどうかが決まるというほどに、まさにその瞬間に一切の命運がかかっている。
福音は、このような論理の砂漠から我々を呼び返す。福音は我々に回心をもたらすであろう。そのとおり!真の回心とは、予定理念によって論理的に逃げ出すことではありえない。真の回心とは、福音の把握しがたい豊かさと確かさの中で悔い改めることである。この豊かさと確かさを失うならば、それは異端ではないだろうか。予定の概念の場合も同様である。そのとき人は、純粋な改革派信仰によって非改革派的になっているのではないだろうか。
4、罪に市民権を与えること
次に我々は、もう一つのわだちに話題を移す。それは、ウルトラ改革派の人々がその上を率先して歩き、いつも決まって足を滑らせるわだちである――そこは滑りやすい粘土の地面である。私が思い浮かべているのは、彼らが罪深い人間存在という点ばかりをやたらと語りたがるあのやり方である。
ウルトラ改革派の人々があれほど熱心に〔ハイデルベルク信仰問答の〕「人間の悲惨さについて」の部分に取り組むこと、そして彼らが辛うじて「人間の救いについて」の部分までは語るが、「感謝について」の部分については全く語らないことを指して、本来の意味での異端と呼ぶことはできない 。そのように呼ぶのはさらなる誤りである。彼らはきわめて真剣である。我々が自分の罪を学び知るのは、福音を学び知るよりも前(vóór)なのか、それとも福音を学び知ることによって(door)なのかという論争点をいまだに考慮に加えていないのは、そのことと我々が罪の中にいつまでも留まり続けることとは無関係だからである。我々はまるで罪の中にとどまり続けるために教会の礼拝に集まっているかのようだ!我々はまるでそのために教会員になり、キリスト者になったかのようだ!我々はキリストについても聴きたがっている。キリストによって成し遂げられたみわざについても聴きたがっている。そのみわざにおいて成就された救いについても聴きたがっている。しかしだからといって感謝の部分が全くなおざりにされてよいわけではない。感謝は神の子の心の内なる喜びという点だけに限定されてはならない。あらゆる日常的な存在が――家畜市場に至るまで――神への賛美礼拝になるべきである。我々は実践的キリスト教に自己限定すべきではないだろう。しかし、キリスト教は実践的であるべきである。
まさにこの点が致命的に不足していることが、その人がウルトラ改革派であることを示している。リベラル派は間違いなく反対側に立っている。リベラル派はしばしば実践的キリスト教の中に事柄を吸収させてしまう。彼らは――彼らの大胆不敵さを神は許しておられるのだが――福音(キリスト!)が世界の中で「立証」されることを求める。彼らはキリストにある救いを携えてさまざまな手を尽くすというようなことをあまりしたがらない。そして彼らは罪深い人間存在についての話を聞くことを嫌がる。この最後の点がいっそう注目すべき点である。なぜなら、キリスト教の罪の教理は、この世の悪の問題に決着をつけるために最も楽観的なやり方だからである。この点でリベラル派は、悲劇的生活感覚の深淵の中に転がり落ちていくところに常に立つ。この点ではウルトラ改革派のほうが健全であり、より楽観主義的である。ウルトラ改革派は罪深い人間存在という一点をしっかり握る。他の立場に立つこと、たとえば、創造の諸構造の中に悪の諸起源を見つけ出すことなどは、この人々にとっては一瞬たりとも脳裏によぎらすことがない。
しかし彼らは罪深い人間存在についてはどう語るだろうか。私がそれを語るときは、この事柄についての考え方や語り方の全体が、我々は自分の罪と過ちにおいて「死んでいる」という使徒のイメージによって規定されている。このイメージがウルトラ改革派の手の中に握られている。一人の罪人は死せる人間である。死せる人間とは死体のことである。死体は腐るために置かれることができるだけである。人間は主の鼻の穴の中の悪臭である。そのようなものとして彼は生まれた。そこにあるのは罪の共同性と生来性、つまり〔アダムとエバの〕堕落(zondeval)と〔アダムから受け継いだ〕原罪(erfzonde)である。そこに初めからあるのは死臭のみである。人生と世界のうちに漂う死臭のみである。
私見によると、使徒のイメージをまさにこのようなものとして描き出すことこそが我々を異端の道へと導くやり方である。罪深い人間存在が有しているのは死体それ自体の受動性だろうか。罪は死と同じ意味での定めとしての性格を持っているのだろうか。罪は行為ではないだろうか。私は、罪は個別の間違った行為という意味での悪行(zonden)から構成されている、と言おうとしているわけではない。たしかに罪はそのようなものによっても構成されている。しかし、罪深い行為の中に、またそのような行為の背後に罪それ自体があり、罪深い性質があり、堕落した本性がある。しかし、たとえそうであっても我々は、もし純粋な正統主義の立場にとどまりたいのであれば何度も最後まで突き詰めなければならない。最終的に問題になるのは一つの行為でも複数の行為でもない。性質や本性でさえ問題ではない。問題はその行為の行為者(dader)である。だからこそ人間は罪人そのものである!
そのように語っているときに我々は、罪と過ちにおける「死」と名づけられたイメージをたしかに抱いている。しかし、実際の我々は元気に生きている。生物学的な意味で元気に生きているだけではなく、霊的な意味でも元気に生きている。我々は神との関係において元気に生きている。そこでいつも問題になるのは、我々が神とその御心に反して生きているということである。我々は永久に神と闘い続ける。罪深い人間存在は、純粋に行為性(actuositeit)によって構成されている。罪とはひとつの行為であり、かつすべての行為である。それはまた純粋に悪意性(moedwilligheid)においてさえ存在する。使徒は死体の話をしているのではない。彼がたしかに語っているのは、我々は弱い者であったということであり、それゆえにこそ我々は神なき者であったということであり、それゆえにこそ我々は神の敵でさえあったということであり、そして、それゆえにこそ我々は和解され、義と認められた者である、ということである。
我々は罪からこの生命性(levendigheid)すなわちこの行為性と悪意性を抜き取るべきではない。なぜなら、それらを抜き取るときに我々は罪に市民権を与えることになるからである。言うならば、そのとき我々は罪深い人間存在に市民権を与える思想を持っている。そのとき罪は神の定めにおいて与えられたものとして理解され、体験される。しかも、我々はその理解と体験に至るまでいつも同じ仕方で待つことができるだけではない。もし罪が神の定めにおいて与えられたものであるなら、再び繰り返しうるものにもなる。こうして我々は――純粋に受動的に――地上性(wereldling)から天上性(hemelling)へと移し替えられてしまう。堕落(zondeval)と原罪(erfzonde)に市民権を与える思想に対して、いくぶん宿命論的な選びの概念をもって答えている。
それに対して我々は、純粋な正統主義の教理を十分な説得力をもって持ち出すことはできない。この場合の純粋な正統主義の教理とは、罪とは――〔アダム自身が犯した〕原罪(oerzonde)という意味での堕落(zondeval)の形態においても、〔アダムの罪の結果として生まれた〕共同性の意味での原罪(erfzonde)の形態においても――咎(とが、schuld)である、というものである。我々はその行為の行為者であるという意味での「罪人」であり、そうであり続けている。我々は咎ある者として生まれた。我々がしなければならない唯一のことは、自分自身の罪人としての定めを憎み悲しむことではなく、自分自身の咎を告白することである。罪深い人間存在という点も一つの信仰個条である。人間は罪深い存在であるということが我々に対して、御言葉の奉仕の中で職務的に告知される。我々はそのことを「すべての聖徒たちと共に」告白することができるだけである。各個人は、遠くから、おぼろげに、自分自身はどうだろうと推測できるだけである。それが意味することは、職務的な意味で「仲保者を通して(óver)」語られたということであり、あるいはまた信仰告白的・リタージ的な意味で「仲保者によって(dóór)」語られたということである。仲保者は、罪によって神の御前から失われた者の状態(verlorenheid)を徹底的に味わい尽くされた。仲保者の体としての教会は、この悲惨の認識を、仲保者と分かち合う。各個人は、繰り返し教会のこの認識において、自分の出番において、この体にメンバーとして参加する。
しかしここに問題がある。彼らはなんと、咎(schuld)を告白しているときに罪(zonde)を憎み悲しんでいない!我々は罪の真理に関する滑りやすい道の上で足を滑らせるだけではない。我々が罪に市民権を与えてしまい、まるでそれが当然起こるものであるかのようにするように考えたり語ったりした途端、一切はちょうど正反対を向いてしまう。正統の反対が異端である。ここで我々は、より右翼的であることは右翼よりも右側ではない、という命題は全く明白な真理であることに再び気づかされる。我々が罪について「重く」語ることがありうるということは、我々がもはや罪については全く語らないこととは全く別の話である。
罪に市民権を与える異端は、ウルトラ改革派だけに責めを負わせてよいだろうか。彼らの場合、この異端はきわめて明白に露見される。しかし、それによって生じうるのは、彼らが罪について驚くほど多く語るということである。すべての改革派プロテスタンティズムは、多少なりともこの異端の悪しき影響に冒されているのではないだろうか。ローマ・カトリック教会と東方正教会についてこの関連で語るべきことは、我々にはほとんどない。なぜなら彼らは不思議なほどに、罪深い人間存在という点をほとんど全く考えないからである。ルター派の事情はおそらくいくらかましである。彼らが主張する律法と福音の永遠の弁証法、すなわち裁きと恵みの永遠の弁証法はくらくら目が回るものであるが。しかし我々は改革派プロテスタンティズムが罪について純粋に語っていることを――まさにそれが語るとおりに――正しく聞いているだろうか。咎としての罪はなんらかの意味で“被造物の栄誉”と呼ばれるものでもある(創造者は無から何ものか、すなわち“悪”をも創造することがおできになる方である)と理解することまでもが正しいだろうか。我々は罪を咎として告白する。罪ある者がこの一事をなすとき、救いの陽光はすでにのぼり始めているのだというこの点に一切の命運を賭けてしまうやり方がはたして本当に正しいだろうか。実際には、すべての改革派プロテスタンティズムが、ウルトラ改革派が教える「我々が罪を犯すのは当然である」という異端的な罪意識によって侵食されているのではないだろうか。
罪について純粋に正統主義的に語るのは最大級に難しいことでもある。しかし我々は悲劇的生活感覚の絶望によって打ち倒される恐れのある現代社会に生きている。その我々が「創造についての信仰個条は、現代の状況においては、罪についての信仰個条よりも重要である」と語るべきかどうかを問いなおす必要などは全く無用である。
(中略)
たとえば興味深いのは、ウルトラ改革派のキリスト者とメソジストのキリスト者の出会いに立ち会うことである。私はヒルファーサムの教会協議会で何度か体験した。メソジストのキリスト者も、個人的回心とその絶対的な必要性を盛んに語る。恥じることなく、ときに厚かましく自分の回心について語り、これまで自分が歩んできた道について語る。その時点ですでに、教会に対して同情的な、改革派的な考え方をするキリスト者たちは機嫌が悪い。しかし、そういうとき、ウルトラ改革派の人たちは、相手がいかに浅薄で深みがないかを哀れむそぶりで、首を左右に振りつつ立っている。そして、メソジストのキリスト者仲間に次のように語る。『兄弟よ、あなたが持っているのは言葉だけである。しかし、言葉の中に、あなたがまだ見ていないものがある。それを体験しなさい』。そのようにしてウルトラ改革派の人たちは、教会の庭に生えた霊的な生命の若葉を乱暴に蹴り殺す。これは専制支配(tirannie)の深刻な一形態である。
(続く)
【出典】
A. A. van Ruler, Theologisch Werk, deel III (1971), p. 98-163.
A. A. van Ruler, Op het scherp van de snede (1972). p.9-91.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk, deel IV-B (2011), p. 721-801.
1969年9月5日、私はルンテレンで開催されたオランダ改革主義学生会の同窓会の会合で「家庭内戦争の終結」という題の講演を行った。講演はオランダ国内の二つの改革派教会(Nederlandse Hervormde KerkとGereformeerde Kerken in Nederlands)の関係の問題、両教派の二十世紀以内の統合は不可避的であるという問題に及ぶものであった。その場合にいつも起こる問題の一つは、戒規(leertucht)の問題である。その関連で私は「改革派の右翼には異端が潜んでいる。彼らの横に立つとリベラル派の異端が児戯に見える」という自説をうっかり披瀝してしまった。この発言が短い解説付きで『教会と神学』の第21巻(1970年1月)7~8ページに掲載された。それがなんとも派手で挑戦的な扱いだったので、『ヴァーペンフェルト』 編集部の関心を引くものとなった。同誌編集部が常に注目していたのは、同じような意見が『なぜ私は教会に通うのか』 という私の本の173ページにも見られるということだった。そこに私は次の問いを書いた。「しかし我々は、罪深い人間存在についての純粋な教えをどこに見いだすのだろうか」。そして答えとして加えたのはこれである。「とにかくその教えを見いだせるのは改革派プロテスタンティズムの右翼のところではない!」。編集部が問いかけてくださったのは、この命題をもう少し詳しく言うとどういうことになるのでしょうかということであった。それで思い至ったことは、この依頼に私は応えなければならないということであった。我々は、このような言葉を思いつきで言ったまま放置することはできない。そういうやり方は、軽率な当てこすりのように思われてしまう。また我々は自分自身を一つの思想世界へと結びつけることをしないで、こういう言葉を語ってはならない。我々がそれと認めるすべての異端を一列に並べてみることは、よいことである。それが透明性に仕えるやり方である。
とはいえ、我々が愛する霊的潮流についてこれほど悪く言わなければならないのは悲しいことである。改革派信仰は最も美しく最も豊かな公同的キリスト教の形態である。ウルトラ改革派は改革派的クオリティのすべてを備えている。私はウルトラ改革派の人々もそうであると考えている。彼らは私の最愛の人々である。彼らは実存の深みを比類なき仕方で味わっている。典型的な実存主義者などは彼らに比べればブルジョア人間のサロン的体験主義にすぎない。ウルトラ改革派は真面目に生きている。そのことについては深い尊敬の念を持たなければならない。彼らはすべてを絶対的な口調で語る。その点で彼らはパスカルやキルケゴールに似ている。彼らの最も重要な代表者たちが示す誠実さと心の広さ、その幅広い、あらゆるものを包容する寛大さは、感動なくして見ることができないものである。
それゆえ、私は、ウルトラ改革派を賛美する歌をいつまでも歌いつづけることさえできる。しかしそれは、今私が果たすべき務めではない。私は彼らの異端性について語らねばならない。彼らの凄まじい異端性についてである。彼らに比べれば、リベラル派の異端はまるで子供の遊びである。数年前、私は改革派牧師会の会合で「体験主義の光の面と影の面」という題の講演を行った(『教会と神学』、第5巻、1954年、131~147ページに掲載)。その仕事をやり遂げた後に強く感じたことは、光の面が非常に鮮明に浮かび上がってきたということと、影の面がまさに一面的に影の中にとどまり続けているということであった。しかし、今それを修正したい。私は今、体験主義の中にある一定の影の面だけではなく、ウルトラ改革派の体験主義の中にある一定の異端を指し示すことに、より明瞭に自己限定したい。我々はこの最も重要な霊的潮流の無価値な面〔onwaarden〕(影の面)だけでなく、(あまりにもひどい)虚偽の面〔onwaarheden〕(異端)をも持っている。
しかし、私は何も異端狩りをしたいわけではない。1969年9月の講演において私が注意を向けさせたのは、次のことにすぎなかった。すなわち、我々が戒規を開始するときには、左側の異端のことだけではなく右側の異端のことについても考えねばならないということ。しかしそのとき大切な体を切りつけられるかもしれない恐怖におそわれるということ。我々はこのことを考慮して戒規の問題について考えるのを遠慮している面もある、と述べたにすぎなかった。
とはいえ、「異端」について語ることは時代遅れなのだろうか。すべてが等しく真実だろうか。そもそも真理が問題になっているのだろうか。我々は互いに愛し合うべきではないのだろうか。教会的に翻訳しなおすならば、我々はエキュメニカルな開かれた態度と団結心とをもって共に生きるべきではないのだろうか。そのことを我々は今では至るところで耳にする。その際に注目すべきことは、右翼の人々のモチーフや内容に則って語りたがる人々、とくに(教会的・神学的意味の)ウルトラ右翼の人々のモチーフと内容に則って語りたがる人々は、珍しいほどにほんのわずかしか開かれた態度を持ち合わせていない、ということである。彼らはそのような感覚器官を持ち合わせていない。彼らはどこに問題があるのかということを全く理解さえしていない。我々はオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の中で改革派同盟(Gereformeerde Bond)に反対する中道正統派(midden-orthodoxen)の態度を目の当たりにしている。これはもっと恥ずべきことを犯している。ウルトラ改革派の異端たちがあまり大げさに語らないことには理由がある。彼らはあまりにも埋もれた〔人目につかないために見落とされる〕グループを形成しているからである。我々は「黒靴下教会」(zwarte-kousen-gemeente)を、ただ単に笑い者にするか、軽蔑し、厳しく裁くだけである。
しかし私は、この考察を、また問いかけられたことについて説明することを、思いとどまるわけには行かない。真理とは一事か万事かというようなものではありえない(真実は重要であり、また真実こそが事実である!)。とはいえ、我々がすることは彼らに大量の散弾を放つことでもありえない。我々は彼らと闘い続けるべきである。もはや真理問題を持ち出すべきでないというなら、すべてのエキュメニカルな仕事はむなしいものになる。真理問題を正しく持ち出すならば、そのとき我々は異端を宣告し、譴責する勇気をも持たなければならない。まさにそのとき我々は本来的な事柄に取り組んでいる。それは愛である。少なくとも福音とキリスト教信仰の意味での愛である。
1、隠蔽
「リベラリズムの異端などは、ウルトラ改革派の異端に比べれば、子どもの遊びである」という私の命題は、第一に、ウルトラ改革派の異端は真の敬虔と純粋なる正統主義のマントをまとって登場しがちであるという、いくらか形式的な留意点を根拠にしている。ウルトラ改革派は〔政治的〕右翼とは無関係である。彼らは、常に右寄りであろうとする人々である。〔政治的に〕右翼であることには決して満足しない。右寄りであればあるほど素晴らしいと思っている。言うならば、考え方と生き方において右寄りであればあるほど素晴らしいと思いこんでいる。
そのことは、実を言うと、左翼の場合にも当てはまる。我々は、今日、それを政治の中に、あの悪名高き社会参加(アンガージュマン)の中に見いだす。人がひとたび「サヨク」を名乗る勇気を抱く。すると、たちまち、抑えきれないほどの勢いで、ラディカルな左翼として考え、語るようになってしまいがちである。そして、ついには絶対的民主主義者のようになる。ところが、それは、実際には無政府主義(アナーキズム)であることが分かる。民主主義が無政府主義に取り込まれている。そこに左翼の明らかな限界がある。彼らはそこで、急激に右翼的なものへと変貌する。無政府主義的な少人数の集団が強固な独裁制を喜んで打ち立てる。そのような事例が教会や神学の中にもあることを、我々は知っている。すっかりリベラル派になってしまった人、結局リベラル派になった人は、もはやキリスト論(キリストについての教説)を維持することができない。キリスト教的な要素を取り除くことが純粋なリベラリズムの仕事であるということに、彼らは気づく。
左翼に限界があるように、右翼にも明らかに限界がある。常に実際上の右にいれば、そこが必ず右になるというのは、外見上のことにすぎず、目の錯覚にすぎない。正統主義はハイパー正統主義にもなりうる。ハイパー正統主義には良い面がたくさんある。最悪というほどではない。悪いことは、ハイパー正統主義はなんら正統的ではないということである。彼らはキリスト教の限界を超えてしまっている。そのうち私は、そのことを、文書をもって証明したいと願っている。
しかし、ウルトラ右翼のこの右翼的外見、ハイパー正統主義の正統的外見が、我々を激しく騙す。知らぬ間に我々は、彼らの影響を深く受けている。ウルトラ改革派は、全く真正な改革派である!彼らは全く首尾一貫している!彼らは物事に対して非常に真面目に関わっている!彼らは永遠の堕落か永遠の救いかという一枚のカードに一切の命運を賭けている!このように語ることは、我々を「黒靴下教会」(zwarte- kousen- gemeente)の仲間に加えることを意味しているわけではない。あれは我々にとってはあまりにも息苦しい。文化的・道徳的に息がつまってしまう。しかし、彼らは、たしかに真の右派であり、真の正統派であり、真の改革派である。この点で我々があえて批判的に語るべきことは、ほとんどない。
この点でリベラル派はたいてい違っていた。たいてい彼らは自分は何者であるかを公表してきた。彼らはリベラル派(vrijzinnig)を名乗ってきた。その意味は常に、「正統主義ではない」(niet-orthodox)ということだった。彼らは、教義とか教会の信仰告白のようなものとは明らかに馬が合わない。そのような言葉にだけは近づかない。リベラル派の側においては、正統主義と正統主義者に対する明らかな反感や敵意や憎悪が語られることさえある。リベラル派の人々は、たいてい、洗練されていて、親切で、信頼できる人物である場合が多い。ところが、正統主義に立ち向かう場面での彼らの態度には、熱狂的で憎悪に満ちたものがある。その原因はおそらく、彼らが過去に味わった何らかの体験にあるのだろう。
この点が、やはり、ウルトラ改革派とリベラル派との大きな差をつくる。ウルトラ改革派の人々は、正統主義と真の内面的な敬虔性の旗のもとで航海する。彼らの船の積荷は、教義の根本構造に全く対立する異端である。しかし、教義そのものは高くマストの上ではためき続けている。それに対して、リベラル派の人々はこの旗を引きずりおろす。彼らの船の積荷は、教会の教義と競い合う十分な異端である。彼らは三位一体、受肉、贖いの犠牲、復活、サクラメント、予定などを問題にする。リベラリズムの中にまだ残っている教会の教義は何だろうか〔もはや何も残っていないのではないかと思うほどである〕。ところが、リベラル派の人々は、代々の教会が教えてきたのとは対立することを彼らが教えているということを公然と述べる。
リベラル派の人々がキリスト者という名に奇妙なほど頑固にこだわりを持っていることは、おそらく理解しうることである。ところが、彼らが同じように教会に対しても非常に頑固にこだわりを持っていることは全く理解できない。教会は代々の教会である。教会は、生けるキリスト(!)の体としての教会(!)として、自らの信仰告白を持っている。教会が正統的なのであって、教会の中の一グループだけが正統的であるわけではない。どうしたらリベラル派が教会に頑固にこだわることができるのだろうか。彼らは教会を悪用しているのではないだろうか。
しかし、それこそが彼らのやり方である。おそらく彼らはアンフェアなことを行っている。ところが彼らはそれをフェアな方法で行うのである。彼らは自分たちの船の積荷は異端であるということを公言する。そういうことをウルトラ改革派の人々はしない。正反対である。いつだって彼らは、「我々は、まさに真正なる正統の道を示している、正しい教会である」と主張するのである。
この点が彼らの異端性を手に負えないものにする。我々は、彼らが純粋に改革派的な真理であると言って公表してきたことは、なんら改革派的ではないばかりか、もはやキリスト教でさえないということに気づき、公的に宣言するために、あらゆることを鋭く見つめ、事柄の本質を深く見抜き、相当な分量の霊的勇気を集めなければならない。隠れた異端は、たいていの場合、露骨な異端よりも危険である。それは、しばしば、より深刻な異端である。言葉のキリスト教的意味での霊的生活は、ひどく蝕まれ、結局は破綻してしまう。
2、キリスト小僧
しかし、我々は、この「露骨である」か、それとも「隠れている」かという、いくらか形式的な問題を扱うのは、もうこれくらいにしよう。もっと実質的な問題のほうに向きを変えていくことにしよう。これまで私がたしかに主張してきたことは、ウルトラ改革派の生い茂った草むらには、なんとひどい異端の毒蛇が隠れている、ということであった。ただ、この主張は、実証されるべきことでもある。
そこで私は、一人の老牧師がお話しくださったことから出発することにする。これは、我々夫婦がこの牧師夫妻宅を訪問したときに伺った話である。この先生は、オランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の改革派同盟(Gereformeerde Bond)の教会で働いておられた方である。当然我々は、先生の仕事や教会のことに話題が及んだ。先生が教えてくださったのは、ひどく深刻なウルトラ教会員たちが先生のことを「このキリスト小僧」と呼ばわったという話である。それは、この先生が外的召命(vocatio externa)と称される純粋に改革派的な説教の構造を固く守ることを習慣としておられたことを指して言われたことであるという。この構造は証言(testimonium)・委任(mandatum)・約束(promissio)という見事な三要素から成り立っている。「証言」とは、御言葉の奉仕者が救いの証言を手渡すことを意味する。救いとは何であると彼が語り、そして、それは実際に起こることなのだと語ることである。それは、かつて一度、それを最後に、獲得され、贈られたものである。「委任」とは、この救いを信仰において受け取り、迎え入れるために、すべての人間は召されている、というのが神の御心なのだと、御言葉の奉仕者が語ることを意味する。そのとおり、すべての人は、彼らに神の御心を命じ、委任する人々から召されているだけではない。信仰の服従において神がお与えくださるすべてのものを自分自身のところまで届くようにし、自分自身が受け入れる。そのために御霊が絶えず根気強く心の扉を叩くために立っておられる。眠れる王妃を起こすために、王子が城門の外で笛を吹く。外的召命(vocatio externa)は、すべての壁を通り抜けて進入し、内的召命(vocatio interna)になることを欲する。「約束」とは、全き救いとしての救いを信仰において受け取り、迎え入れた人々には、永遠の聖定に基づいて、彼らに与えられる永遠の祝福がまさに確かな現実として可能となるのだ、ということを意味する。
私は、この老教師はそのように純粋に改革派的な説教をなさったのだと、確信をもって言い張るつもりはない。しかし、いずれにせよ大体このあたりに着陸なさった。私にとっては、かの有名な〔ウィリアム・パーキンスの〕黄金の鎖 などは、この三要素よりも美しいものではない。我々は一方の側にも他方の側にも傾いてはならない。我々は説教壇から次のように語ってはならない。「皆さん、全き救いは十分に成就されました。それゆえ、私はあなたがたに宣言します。あなたがたすべての人は救われているのです」。そのとき問題になっているのは、純粋にキリスト論的な事柄である。しかし、我々は、次のようにも語ってはならない。「皆さん、全き救いは十分に成就されました。しかし、あなたがたは燃え上がってはなりません。なぜなら、救いとは、ただ選ばれた者たちのためだけに起こることだからです」。ここで問題になっていることは純粋に聖霊論的な事柄である。しかし同時にこのきわめて一面的で貧弱なやり方には問題がある。上記の三要素は、両方の偏った立場に陥ることから我々を守ってくれる。キリスト論的な事柄が全面的に引き出される。それは、歴史的キリストの歴史的みわざにおける歴史的救いを指し示す。聖霊論的な事柄もまた、全面的に引き出される。それが、御霊が人間の心に働きかけてくださるための方法を命令し、約束する。問題は、私はこの方法を専有してもよいかという点や、私はそれを専有すべきかという点にあるのではない。問題は、主なる神が御言葉の奉仕者の口を通して私にお命じになることを、私が神の御心とすべきかという点にある。
さて、大体このように老教師は説教なさった。ところが、深刻なウルトラ教会員たちは、人を哀れみ、小馬鹿にするような目で見くだした。彼らは地面につばを吐き、言った。「ちぇ、またかよ、このキリスト小僧が」。しかし、我々の牧師は、キリストとこの方にある救いに常に留まっておられた。先生は外なるものへと留まっておられた。我々は、歴史的キリストとどのように関わっているのだろうか。我々は、ベツレヘムでお生まれになり、ゴルゴタで死なれたお方とどのように関わっているのだろうか。歴史的キリストは、ともかくひとたび、内なるキリストにならなくてはならない。キリストは、我々の心の中でお生まれにならなければならない。心の中で、このお方が死んでくださり、復活してくださらなければならない。それが、そしてそれだけが真の救いである。このこと自体については、もちろん、この表現やこれと同種の表現を、全く肯定的な意味で語ることができる。これらの表現は人格的で主体的な適用と、客観的なものを私のものにすること(toeëigening)と、歴史的な救いとを指し示している。適用と私のものにすること(toeëigening)は、歴史的キリストの受肉、十字架の贖い、復活と同じく、力強い出来事である。そこでも、同じようなことが起こる。全く同じというわけではない。我々は、キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的で内容的な差異を過小評価してはならない。しかし、構造的によく似たことが起こる。
ところが、これらの表現に歴史的なキリストとこの方の歴史的なみわざとにおける歴史的な救いに対するなんらかの軽蔑が付随してくるや否や、純粋な正統主義の人は、考えうるかぎり最悪の異端の一派に陥っている。彼らが完全な深みに陥っているときには、内面的なキリストだけを語っているわけではない。内面的なキリストを語っているようで、いつの間にか、永遠のキリストを語っている。時間的要素がすっかり抜け落ちてしまう。その人は、永遠の聖定の中にいるようにだけ、自分自身を体験する。すべての時代の神秘思想において内面性は常に永遠性と婚姻関係にあった。しかしキリスト教と共にこの婚姻関係は解消された。歴史的要素は(理性的精神にとっては)大きな弱点であるが、キリスト教信仰の(歴史的意識にとっては)最高の栄光である。グノーシス主義は、そこでいつも躓く。グノーシス主義は常に極端なキリスト教であろうとしたが、まさにそのようなものとしてグノーシス主義は、それによってすべての時代のキリスト教信仰を最もひどく悩ましてきた敵である。グノーシス主義者は、歴史的なものを超克することを欲する。彼らは、使徒的福音の権威に聴き従い、それに拠り頼むという単純な信仰を超克する、最高の正しい霊的認識を欲する。真理の裏側にある真理を知りたいと、彼らは欲する。
私は、ウルトラ改革派は明白なグノーシス主義であると語り、彼らこそが考えうるかぎり最悪の異端であると糾弾することについては何の躊躇もない。そのようなものとして彼らは、キリスト教界から身を引かざるをえなくなる。代々の公同教会の純粋な正統主義と彼らは、何の関係もない。救いを究極的に自分自身の外側に――歴史的事物の中で栄光化されたキリストのうちに――(少なくとも現時点で)見出さない人は、もはやキリスト者ではない。キリスト者の背後に救いがある。キリスト者は、救いに基づいて生きている。救いのうちに生きており、この私のうちに救いがある。
これと比べれば、リベラル派の異端は、事実上、子どもの遊びである。彼らは常に――全く欠陥だらけの貧弱な方法であるとはいえ――救いの中心としての史的イエスを指し示してきた。彼らが史的イエスのことを純粋な諸概念の教師であるとか、真の生活知の教師であるとか、純粋な道徳的生活規範の教師であると見るのは、よいことである。彼らが仲保者としてのイエスと模範としてのイエスの間に常軌を逸した対比を設けた上で、史的イエスのことを単なる模範、あるいは特別な模範であると見るのは、よいことである。たとえ模範という語の意味が(我々はこのお方に追従しなければならないという)純粋に基準的な意味であれ、(このお方から、我々を救い出し、我々を導いていただける力が生じるという)救拯的な意味であれ。
彼らは間違いなく、深刻な方法で使徒的福音を傷つけている。いずれにせよ彼らは、正当化も容認もできないような方法で新約聖書を矮小化している。しかし、それでも彼らは、イエスの御名を呼び続けている。キリスト教の事実上のすべてが、この点にかかっている。
3、予定理念からの論理的演繹
ウルトラ改革派のグノーシス主義的性格は、ある方法によって常に繰り返し隠蔽が行われる。その方法は、ウルトラ改革派の人々が前代未聞の激しさをもって取り組む、偉大な改革派的真理としての予定論である。それは十分な意味での、すなわちドルト教理規準的な意味での二重予定論である。今ここで、この真理についての解説をするつもりはない。私の考えでは、予定論は、人間存在についての洞察としてこれまでに見いだされた中で最も深いものである。それはカルヴァンとドルトレヒトの教父たちに栄誉を授け、霊的な勇気と力をもたらした。また、この真理が霊的存在にもたらす緊張はどれほど大きなものでありうるかについても徹底的に語られ、広げられてきた。アウグスティヌスは、最後のところでいつも躊躇を持っていた。ルターは、最終的には後ずさりし、沈黙してしまった。
二重予定の真理と事実は、経験的に捜し求めることができるものである。ある人にとっては、若いときから死の日に至るまで、福音が全く問題にならない。福音は彼に何も語らない。彼は生ける屍のように見える。彼はこの光によって目がくらむばかりである。恵みが彼の心をかたくなにしたのである。同じ家族の中の他の人は、彼の全存在の、心と体の全繊維をもって、子どもの頃から死に至るまで、まるで釘と磁石のように預言者たちと使徒たちの証言に張り付いて離れない。彼が簡単に引き離されることはありえない。彼は福音と信仰に対抗する幾千もの学問的・哲学的な反対や議論を知っている。しかし、すべては去り行く。救いの力が、まるで魔法のように留まり続けるのである。
また、予定の真理は聖書から読み取られたとおりの事柄でもある。生ける神は意志され、行為される神である。神は歴史によって選びと遺棄を実行される。遺棄の教理はあまり、あるいは全く聖書の中には見いだされないかもしれない。教理的な事柄である。教義は必ずしも聖書に立っていないことがある。しかし、果たして我々は、二重予定論の道筋の上で考えていくことなしに、聖書の十全な内容を実際に把握することができるのだろうか。
この経験的側面と聖書的側面の他に、論理的側面が、予定の教義の形成においては常に役割を果たしてきた。選ばれているということがあるのだとしたら、選ばれていないということもあるのではないだろうか。そのような聖書的な一組のペアがあるのではないだろうか。選びの概念は、常にもう一つの概念と共に語られるべきものではないだろうか。そして、選ばれていないということは、遺棄されていると言い換えるところまで突き詰めて考えることができるのではないだろうか。この遺棄という表現をあらゆる暴力をもって回避したいと欲することは、卑怯なやり方ではないだろうか。
このようにして初めて、十分な意味での二重予定論となるのである!それは真理であり事実であるところの二重の予定である。ところが、J. G. ヴェールデリンクは、ウルトラ改革派の人々が予定の真理(waarheid van de predestinatie)を予定の理念(predestinatie-idee)へと取り替えたことに衆目の注意を促した。これはおそらく不適切な表現である。実際ヴェールデリンク自身は、この問題に関する続編の研究書においては、奇妙な不可知論的な闇の中に予定を見出すに至ってしまっている。とはいえ、ヴェールデリンクは、真理としての予定と理念としての予定との区別をしてくれたことにおいて――深い洞察力を持つ多くの神学者たちの場合と同様――我々に価値あるヒントを与えてくれた、と言ってよいだろう。
我々は予定の真理と事実を、身震いと驚愕とをもって見つめ、認識し、信じている。ところが、それが理念に置き換えられるときには事柄の本質から出発することになる。それは原理になる。その原理から論理的推論という道を通って全体系を演繹するのである。予定の理念が体系の下部構造を支配する。そうなると無意識のうちに我々は、人間は(今や人間はその原理を見いだした者である)全体系を完成させ、閉じることができる、という仮定のもとに生きている。
最も悪い点は何だろうか。「閉じた体系」を考え出すことだろうか。一度考えたことを別様に考え直そうとするところだろうか。論理的推論の道を通って歩き回ることだろうか。考える人間は悪いものを手に入れる、という点だろうか。それとも、予定の真理を論理的体系の原理にしてしまうことだろうか。
最後の点には問題の核心がたしかにありうるだろう。その人は、思想的に硬直している。存在を忘れている。事実を忘れている。福音を忘れている。福音が宣べ伝えられているということを忘れており、そしてまた、救いが全き十全性において全人類の前に現に存在するものとして差し出されているということを、忘れている。そのところで――すなわち、生きている存在の生起する事実と、宣べ伝えられた福音とにおいて――まさにそのところで、人の理解を超えて、謎めいた仕方で二重の予定が行われる。人間は全き事実において選ばれもし、棄てられもする。ウプケ・ノールトマンスと共に、「神はいちばん最後の瞬間に、永遠のご決意をなさるのだ」と語る。
もちろん我々は、これらのことを越えて考え続けることができる。機会あれば、二重予定論を出発点にすることもできる。二重予定論からすべての事柄を考え抜いていくことができる。そのとき、二重予定論は原理にさえなるのであり、そこから楽々と(神学は遊びでもあるのだが)論理的体系を演繹していく。しかし、それ以上に与えられていることについて、我々は、同じように何をすることができ、何を許し、何をなすべきだろうか。一体我々は「予定論的神学」というようなものだけを作り上げて、それで何を望むのだろうか。同様に我々は、その裏面の「三位一体論的神学」を持たねばならないのではないだろうか。また、その対極の「歴史的・終末論的神学」を、さらにまた「神の国の神学」をも持たねばならないのではないだろうか。あるいは同じく重要なものとして「キリスト論的・聖霊論的神学」をも持たねばならないのではないだろうか。「罪の神学」を含む「創造の神学」も必要ではないだろうか。
キリスト教には、人を夢中にするものがある。ただし、それはキリスト教の原理ではない。多くのものが同時にある。このことが教えているのは次のことである。すなわち、どれほど多くの論理的思考方法を踏破したとしても、ばらばらの教説(loci)を正しく並べるための最善の順序を見いだすことは不可能であるということである。一つの原理から「閉じた体系」を構築することは可能であると考えるのは、もうやめようではないか。もちろん、我々は探究しなければならない。それと共に体系を考えなければならない。しかし、その体系を我々自身が見いだしたものであるかのように考えるべきではない。我々が見いだすよりも前に、福音自身があまりにも豊かであり、あまりにも多くの枝を張りめぐらしていた。
大胆に言えば、論理は歴史的福音によって破壊されなければならない。歴史的福音は我々を、救いと存在の多面的で把握不可能な事実の中へと引きこむのである。福音は、少なくとも罪人である者にとっては想像する以上に事実そのものである。
そのことにウルトラ改革派の人々は、しばしば気づいていない。彼らは福音を論理に置き換える。彼らは、もっぱら永遠の二重予定という観点から、一切のことを考え抜く。そのときに起こることは、当然のことながら、彼らが語ることのすべてが非常に似かよったものになるということである。歴史的キリストの一切、伝統における救いの仲保性の一切、福音と教会との外面性の一切、人間の主体性の一切。これら一切合財が二重予定の地獄の火を怖れる。「永遠の聖定」という一つの事柄に一切が押しとどめられてしまう。
哲学者、とくにヘーゲル系の哲学者は、その中でわが家にいるような居心地良さを驚くほど感じることができるであろう。しかしそれは、キリスト教的に言えば危険なことである。教会を哲学の教室にしてしまうべきではない。そのようなことを、ウルトラ改革派の人々が行っている。例えて言えば、説教の中でそれが提供されているかどうかでその説教が誠実なものであるかどうかが決まるというほどに、まさにその瞬間に一切の命運がかかっている。
福音は、このような論理の砂漠から我々を呼び返す。福音は我々に回心をもたらすであろう。そのとおり!真の回心とは、予定理念によって論理的に逃げ出すことではありえない。真の回心とは、福音の把握しがたい豊かさと確かさの中で悔い改めることである。この豊かさと確かさを失うならば、それは異端ではないだろうか。予定の概念の場合も同様である。そのとき人は、純粋な改革派信仰によって非改革派的になっているのではないだろうか。
4、罪に市民権を与えること
次に我々は、もう一つのわだちに話題を移す。それは、ウルトラ改革派の人々がその上を率先して歩き、いつも決まって足を滑らせるわだちである――そこは滑りやすい粘土の地面である。私が思い浮かべているのは、彼らが罪深い人間存在という点ばかりをやたらと語りたがるあのやり方である。
ウルトラ改革派の人々があれほど熱心に〔ハイデルベルク信仰問答の〕「人間の悲惨さについて」の部分に取り組むこと、そして彼らが辛うじて「人間の救いについて」の部分までは語るが、「感謝について」の部分については全く語らないことを指して、本来の意味での異端と呼ぶことはできない 。そのように呼ぶのはさらなる誤りである。彼らはきわめて真剣である。我々が自分の罪を学び知るのは、福音を学び知るよりも前(vóór)なのか、それとも福音を学び知ることによって(door)なのかという論争点をいまだに考慮に加えていないのは、そのことと我々が罪の中にいつまでも留まり続けることとは無関係だからである。我々はまるで罪の中にとどまり続けるために教会の礼拝に集まっているかのようだ!我々はまるでそのために教会員になり、キリスト者になったかのようだ!我々はキリストについても聴きたがっている。キリストによって成し遂げられたみわざについても聴きたがっている。そのみわざにおいて成就された救いについても聴きたがっている。しかしだからといって感謝の部分が全くなおざりにされてよいわけではない。感謝は神の子の心の内なる喜びという点だけに限定されてはならない。あらゆる日常的な存在が――家畜市場に至るまで――神への賛美礼拝になるべきである。我々は実践的キリスト教に自己限定すべきではないだろう。しかし、キリスト教は実践的であるべきである。
まさにこの点が致命的に不足していることが、その人がウルトラ改革派であることを示している。リベラル派は間違いなく反対側に立っている。リベラル派はしばしば実践的キリスト教の中に事柄を吸収させてしまう。彼らは――彼らの大胆不敵さを神は許しておられるのだが――福音(キリスト!)が世界の中で「立証」されることを求める。彼らはキリストにある救いを携えてさまざまな手を尽くすというようなことをあまりしたがらない。そして彼らは罪深い人間存在についての話を聞くことを嫌がる。この最後の点がいっそう注目すべき点である。なぜなら、キリスト教の罪の教理は、この世の悪の問題に決着をつけるために最も楽観的なやり方だからである。この点でリベラル派は、悲劇的生活感覚の深淵の中に転がり落ちていくところに常に立つ。この点ではウルトラ改革派のほうが健全であり、より楽観主義的である。ウルトラ改革派は罪深い人間存在という一点をしっかり握る。他の立場に立つこと、たとえば、創造の諸構造の中に悪の諸起源を見つけ出すことなどは、この人々にとっては一瞬たりとも脳裏によぎらすことがない。
しかし彼らは罪深い人間存在についてはどう語るだろうか。私がそれを語るときは、この事柄についての考え方や語り方の全体が、我々は自分の罪と過ちにおいて「死んでいる」という使徒のイメージによって規定されている。このイメージがウルトラ改革派の手の中に握られている。一人の罪人は死せる人間である。死せる人間とは死体のことである。死体は腐るために置かれることができるだけである。人間は主の鼻の穴の中の悪臭である。そのようなものとして彼は生まれた。そこにあるのは罪の共同性と生来性、つまり〔アダムとエバの〕堕落(zondeval)と〔アダムから受け継いだ〕原罪(erfzonde)である。そこに初めからあるのは死臭のみである。人生と世界のうちに漂う死臭のみである。
私見によると、使徒のイメージをまさにこのようなものとして描き出すことこそが我々を異端の道へと導くやり方である。罪深い人間存在が有しているのは死体それ自体の受動性だろうか。罪は死と同じ意味での定めとしての性格を持っているのだろうか。罪は行為ではないだろうか。私は、罪は個別の間違った行為という意味での悪行(zonden)から構成されている、と言おうとしているわけではない。たしかに罪はそのようなものによっても構成されている。しかし、罪深い行為の中に、またそのような行為の背後に罪それ自体があり、罪深い性質があり、堕落した本性がある。しかし、たとえそうであっても我々は、もし純粋な正統主義の立場にとどまりたいのであれば何度も最後まで突き詰めなければならない。最終的に問題になるのは一つの行為でも複数の行為でもない。性質や本性でさえ問題ではない。問題はその行為の行為者(dader)である。だからこそ人間は罪人そのものである!
そのように語っているときに我々は、罪と過ちにおける「死」と名づけられたイメージをたしかに抱いている。しかし、実際の我々は元気に生きている。生物学的な意味で元気に生きているだけではなく、霊的な意味でも元気に生きている。我々は神との関係において元気に生きている。そこでいつも問題になるのは、我々が神とその御心に反して生きているということである。我々は永久に神と闘い続ける。罪深い人間存在は、純粋に行為性(actuositeit)によって構成されている。罪とはひとつの行為であり、かつすべての行為である。それはまた純粋に悪意性(moedwilligheid)においてさえ存在する。使徒は死体の話をしているのではない。彼がたしかに語っているのは、我々は弱い者であったということであり、それゆえにこそ我々は神なき者であったということであり、それゆえにこそ我々は神の敵でさえあったということであり、そして、それゆえにこそ我々は和解され、義と認められた者である、ということである。
我々は罪からこの生命性(levendigheid)すなわちこの行為性と悪意性を抜き取るべきではない。なぜなら、それらを抜き取るときに我々は罪に市民権を与えることになるからである。言うならば、そのとき我々は罪深い人間存在に市民権を与える思想を持っている。そのとき罪は神の定めにおいて与えられたものとして理解され、体験される。しかも、我々はその理解と体験に至るまでいつも同じ仕方で待つことができるだけではない。もし罪が神の定めにおいて与えられたものであるなら、再び繰り返しうるものにもなる。こうして我々は――純粋に受動的に――地上性(wereldling)から天上性(hemelling)へと移し替えられてしまう。堕落(zondeval)と原罪(erfzonde)に市民権を与える思想に対して、いくぶん宿命論的な選びの概念をもって答えている。
それに対して我々は、純粋な正統主義の教理を十分な説得力をもって持ち出すことはできない。この場合の純粋な正統主義の教理とは、罪とは――〔アダム自身が犯した〕原罪(oerzonde)という意味での堕落(zondeval)の形態においても、〔アダムの罪の結果として生まれた〕共同性の意味での原罪(erfzonde)の形態においても――咎(とが、schuld)である、というものである。我々はその行為の行為者であるという意味での「罪人」であり、そうであり続けている。我々は咎ある者として生まれた。我々がしなければならない唯一のことは、自分自身の罪人としての定めを憎み悲しむことではなく、自分自身の咎を告白することである。罪深い人間存在という点も一つの信仰個条である。人間は罪深い存在であるということが我々に対して、御言葉の奉仕の中で職務的に告知される。我々はそのことを「すべての聖徒たちと共に」告白することができるだけである。各個人は、遠くから、おぼろげに、自分自身はどうだろうと推測できるだけである。それが意味することは、職務的な意味で「仲保者を通して(óver)」語られたということであり、あるいはまた信仰告白的・リタージ的な意味で「仲保者によって(dóór)」語られたということである。仲保者は、罪によって神の御前から失われた者の状態(verlorenheid)を徹底的に味わい尽くされた。仲保者の体としての教会は、この悲惨の認識を、仲保者と分かち合う。各個人は、繰り返し教会のこの認識において、自分の出番において、この体にメンバーとして参加する。
しかしここに問題がある。彼らはなんと、咎(schuld)を告白しているときに罪(zonde)を憎み悲しんでいない!我々は罪の真理に関する滑りやすい道の上で足を滑らせるだけではない。我々が罪に市民権を与えてしまい、まるでそれが当然起こるものであるかのようにするように考えたり語ったりした途端、一切はちょうど正反対を向いてしまう。正統の反対が異端である。ここで我々は、より右翼的であることは右翼よりも右側ではない、という命題は全く明白な真理であることに再び気づかされる。我々が罪について「重く」語ることがありうるということは、我々がもはや罪については全く語らないこととは全く別の話である。
罪に市民権を与える異端は、ウルトラ改革派だけに責めを負わせてよいだろうか。彼らの場合、この異端はきわめて明白に露見される。しかし、それによって生じうるのは、彼らが罪について驚くほど多く語るということである。すべての改革派プロテスタンティズムは、多少なりともこの異端の悪しき影響に冒されているのではないだろうか。ローマ・カトリック教会と東方正教会についてこの関連で語るべきことは、我々にはほとんどない。なぜなら彼らは不思議なほどに、罪深い人間存在という点をほとんど全く考えないからである。ルター派の事情はおそらくいくらかましである。彼らが主張する律法と福音の永遠の弁証法、すなわち裁きと恵みの永遠の弁証法はくらくら目が回るものであるが。しかし我々は改革派プロテスタンティズムが罪について純粋に語っていることを――まさにそれが語るとおりに――正しく聞いているだろうか。咎としての罪はなんらかの意味で“被造物の栄誉”と呼ばれるものでもある(創造者は無から何ものか、すなわち“悪”をも創造することがおできになる方である)と理解することまでもが正しいだろうか。我々は罪を咎として告白する。罪ある者がこの一事をなすとき、救いの陽光はすでにのぼり始めているのだというこの点に一切の命運を賭けてしまうやり方がはたして本当に正しいだろうか。実際には、すべての改革派プロテスタンティズムが、ウルトラ改革派が教える「我々が罪を犯すのは当然である」という異端的な罪意識によって侵食されているのではないだろうか。
罪について純粋に正統主義的に語るのは最大級に難しいことでもある。しかし我々は悲劇的生活感覚の絶望によって打ち倒される恐れのある現代社会に生きている。その我々が「創造についての信仰個条は、現代の状況においては、罪についての信仰個条よりも重要である」と語るべきかどうかを問いなおす必要などは全く無用である。
(中略)
たとえば興味深いのは、ウルトラ改革派のキリスト者とメソジストのキリスト者の出会いに立ち会うことである。私はヒルファーサムの教会協議会で何度か体験した。メソジストのキリスト者も、個人的回心とその絶対的な必要性を盛んに語る。恥じることなく、ときに厚かましく自分の回心について語り、これまで自分が歩んできた道について語る。その時点ですでに、教会に対して同情的な、改革派的な考え方をするキリスト者たちは機嫌が悪い。しかし、そういうとき、ウルトラ改革派の人たちは、相手がいかに浅薄で深みがないかを哀れむそぶりで、首を左右に振りつつ立っている。そして、メソジストのキリスト者仲間に次のように語る。『兄弟よ、あなたが持っているのは言葉だけである。しかし、言葉の中に、あなたがまだ見ていないものがある。それを体験しなさい』。そのようにしてウルトラ改革派の人たちは、教会の庭に生えた霊的な生命の若葉を乱暴に蹴り殺す。これは専制支配(tirannie)の深刻な一形態である。
(続く)
【出典】
A. A. van Ruler, Theologisch Werk, deel III (1971), p. 98-163.
A. A. van Ruler, Op het scherp van de snede (1972). p.9-91.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk, deel IV-B (2011), p. 721-801.