キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異(1961年)

以下、要約(関口 康)

 20世紀オランダのプロテスタント神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])によると、キリスト教の救済論における救いそのもの、それに伴う神と人間の関係は「キリスト論的視点」(christologische gezichtpunt)と「聖霊論的視点」(pneumatologische gezichtpunt)の常に2つの視点から理解されなければならない。なぜなら、我々の救いにとって不可欠な「説教」(preek)と「信仰」(geloof)は、キリスト論的に理解することが不可能なものだからである。

 ファン・ルーラーが挙げている2つの視点の「構造的差異」(structuurverschillen)は、彼が通し番号を付けているものが8つ、番号無しのものが2つある。

 ファン・ルーラーの意図は、読者にキリスト論的視点を棄てさせることではない。彼が求めているのは、「キリスト一元主義」(Christomonisme)の神学が生み出した隘路や袋小路を指摘し、課題と活路を見出し、そのうえで「全面的に展開された三位一体論的神学」を目指すことである。

 Ⅰ

 第1の差異は、キリスト論における「エンヒュポスタシス」(enhypostasie)の教理が聖霊論においては全く使用できないこと、にある。

 キリスト論の中心教理は「位格的結合」(unio personalis sive hypostatica)であり、それはロゴスの位格(ペルソナ)の内部で神性と人性とが結合していることを意味する。神的ロゴスによって摂取された人性は、常に非人格的なもの(サルクス)でなければならない。

 しかし、「エンヒュポスタシス」の概念を聖霊論へと持ち込むと、我々人間は自分の人格的基体(ヒュポスタシス)を神の中に見出してしまう。それはすべての聖霊論の終焉を意味する。

 神性と人性との「エンヒュポスタシスな関係」は、独特無比な存在としてのイエス・キリストのみに起こったことである。聖霊の働きによって神と人間との一体化が起こるとしても、それは「エンヒュポスタシスな関係」ではない。

 Ⅱ

 第2の差異は、神と人間の関係が、キリスト論においては「受肉」(assumptio carnis; incarnatio)、すなわちロゴスが非人格的な人性(サルクス)を摂取する(assumptio)ことを指すのに対し、聖霊論においては「内住」(inhabitatio)、すなわち「聖霊なる神」がすでに前もって創造され存在していた固有の人格を持つ人間存在の内部に住み込むことを意味すること、にある。

 「摂取」(assumptio)というキリスト論的カテゴリーを聖霊論の中に持ち込むと、四位一体論(quaterniteit)へ不可避的に導かれてしまう。被造物は三位一体の神との対向関係にある固有な実在である。「養子」(adoptio)というカテゴリーは、キリスト論的には不適合だが、聖霊論には適合する。

 聖霊の働きにおける人間の「人格」(persoon)の強調は、人間存在における個別性や、人間の自己主体性を真剣に取り上げなければならないことを意味する。聖霊の働きは、私の中で、私が考え、意志し、行動することの中で、全面的に人間的な形態を獲得しようとする。

 Ⅲ

 第3の差異は、キリスト論においては支配的な意味を有する「代理性」(plaatsvervanging)の概念が聖霊論には使えないこと、にある。聖霊論において有効な概念は「神律的相互性」(theonome reciprociteit)である。

 メシア(キリスト)の存在と行動は、「我々に代わって、我々のために」なされた。仲保者性の意味は代理することに他ならない。しかし聖霊の働きは「我々の中で、我々に対して」なされるだけでなく「我々と一体的に」なされる。聖霊は我々の霊に対して、我々の霊と共に証しする。

 聖霊が「我々に代わって」祈るとか、信じるとか、告白するとか、善き行いをするという語り方は適切でない。聖霊が我々を回心させる。しかし、それは我々が回心するという仕方で起こる。

 「神律的相互性」とは、聖霊なる神がすべてを行い、与え、その結果として我々が自由意志を得ることを意味する。「神が人間を義とする」(justificatio Dei activa)(能動的義認)だけではなく「人間も神を義とする」(justificatio Dei passiva)(受動的義認)。

 キリスト論的にのみ事柄を考える人は、世にある教会と説教に対して絶対的専制(tinannie)のスタンスをとる。聖霊論的にも事柄を考える人は人間の決断や、堕落する自由さえ寛容に許容する。

 Ⅳ

 第4の差異は、キリスト論的に考えれば「仲保者が我々に代わって贖いの犠牲を献げられたこと」が重要だが、聖霊論的に考えれば「我々の存在を生きた犠牲として神に献げること」としての礼拝や「奉献の奉仕」としての献金も「犠牲」として表現しうること、にある。

 後者の場合、「二つの犠牲がある」と言う必要はなく、手段としての御子の犠牲のみが存在し、その結果であり目的としての聖化や栄化の犠牲があると語ってよい。しかし、「贖い」を「償い」(expiatio)と「宥め」(placatio)という意味でとらえるならば、それは肉における神の御子の代理的な特定状況においてのみ生じることなので、それ以外の犠牲は「贖い」ではなくなる。

 しかし、聖化と栄化においても、また礼拝や聖餐式やキリスト者の生活においても「和解」は起こりうる。我々は「和解」という意味での「贖いの犠牲」の概念を取り入れる必要がある。

 Ⅴ

 第5の差異は、キリスト論における「一回性」がゴルゴタでの贖いの犠牲が一回かぎり完全に成し遂げられたことを指すのに対し、聖霊論における「一回性」は一回的な救いの事実としての聖霊の注ぎの出来事を指すが、両者の意味と構造が全く異なること、にある。

 イエス・キリストの場合は「下降」(カタバーシス)と「上昇」(アナバーシス)の両方があったが、聖霊の場合は「下降」はあるが「上昇」はない。注がれた聖霊は、ペンテコステ以来、地上に(特に中心的に教会に)とどまり続けている。聖霊の一回性は「連続性の一回性」であり、教会とその伝統、そして宣教史的プロセスの一回性を意味する。

 Ⅵ

 第6の差異は、キリスト論における「位格的結合」(unio personalis)が、御子なる神が人間の肉において贖罪と救いの業を完遂するために絶対に必要な、緊密な結合であるのに対し、聖霊論における「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)は、被造物の神格化という最悪の結末を避けねばならず、それは「霊と肉との戦い」や「衝突」という形をとるため、やがて解消されなければならないこと、にある。

 Ⅶ

 第7の差異は、聖霊論的に考えれば「聖霊の内住」は「結合」(unio)というより「接触」(aanraking; encounter)を指すゆえに、予定論を「限定的贖罪」か「普遍的救済」かのどちらにも固定する必要が無いなど、キリスト論的視点よりも発想の可能性が広がること、にある。

 Ⅷ

 第8の差異は、聖霊論的には聖霊の働きは「注入恩恵」(gratia infusa)であるゆえに、キリスト論では拒否された「混合」というカテゴリーが聖霊論的には許容されること、にある。

 「混合」の概念の射程は、個々の信徒や教会との関係だけではなく、文化や国家との関係にも及ぶ。特殊と一般の総合、すなわち原理的には救済と創造の総合である。「混合」の概念は、世にある教会としては「寛容」、教会の公同性においては「統合」の要素をもたらす。

 Ⅸ

 「その他の差異」の第1は、キリスト論的には「絶対的に完全主義者として語らなければならない」のに対し、聖霊論的には「完全主義は生命を脅かす異端である」ということ、にある。

 Ⅹ

 「その他の差異」の第2は、聖霊論のカテゴリーとしての「神化」(セオポイエーシス)の可能性である。

(2025年4月28日、レジュメ、月曜会、日本基督教団東駒形教会(東京都墨田区))