A. A. ファン・ルーラー/関口康訳
教会の週報に大きな字で「神が人間になられた」(God is mens geworden)と書かれているのを見るたびに、我々はいつも度肝を抜かれる。前代未聞の過激な主張である。教会には少しぐらいはご遠慮いただきたいものだと申し入れたくなるほどである。我々はこのことを教会の中で古今の賛美歌のメロディにのせて歌うことはできる。あるいは、説教の中で語ることもできる。そのときに我々が感じていることは、これは美しい思想であるということであり、少なくとも麗しい金言であるということである。しかし、だからといって、まさか字義通り受けとる必要まではないだろうと感じている。賛美歌(うた)や説教(はなし)は科学(サイエンス)よりも芸術(アート)に近いものだと感じている。
しかし、福音と教会がクリスマスの出来事をこの短い命題で示すとき、これは詩的な想像力の産物であると言いたいわけではない。これは真理であると言っている。字義通りに。まさに字義通りこの真理は歴史的事実であるとさえ言っている。イエス・キリストにおいて神が人間になられた。この方は歴史上の人物である。この方において神が人間になられたのであり、神の全存在がそのように決着した。
この真理の命題のもとで福音と教会は働いてきた。両者には緊密な関係もある。福音は教会なしでは成り立たない。言葉の十分な意味で言わせていただけば、「イエス・キリストは人間の肉をおとりになった御子なる神である」ということを示す命題は新約聖書のどこにもない。この正しい命題は教会が生み出した。教会が自らの教義形成の中で、一世紀間に及ぶ根本的追考と多くの論争を経て生み出した。
しかし、教会も福音なしには成り立たない。教会がこの命題の中で言いたいのは、哲学者が言うような意味で「それは一つの問題解決をめざしての世界の葛藤(werelddrama)である」とか、「その葛藤の歴史的行程の意味は、神が人類の中に自己自身の意識とすべての事物の意識とをもたらすことにある」というようなことではない 。教会は教義形成の中で世界の葛藤を見つめていたわけではない。教会が見つめていたのは特定の歴史的事実である。イエス・キリストとは誰であり、キリストにおいて生起したことは何であるのかを新約聖書はどのように語っているのかということを、我々はどのように考え、理解することができるのか、あるいは少なくともそれをどのような言葉にすることができるのかを見つめていた。それはまた、西暦一世紀のキリスト教思想家たちの存在理由は何かという問いでもあった。当時のキリスト教思想家たちに対しては、多くの点で、彼らが辿り着いた命題のほうに事実を無理に当てはめようとする哲学的な要求がなされた。イエスとは事実上どのような方であったのかを最も適切かつ本来的に表現することを可能にする命題が「この方において神御自身が我々のところに現われてくださった」というものであった。この命題を無かったことにしようとする人は、新約聖書的証言の本質的な部分を切り捨てざるをえなくなる。
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しかし、たとえもし福音と教義が語っていることが真理であるとしても、やはり大いに驚愕すべきことである。人間はすべてのことを理解し尽くすことなど決してできはしない。何の変哲もない飼い葉桶の中に寝かされた幼子が、別の言い方をすれば、ごくありふれた幼子が御子なる神なのだ!この点で我々はひざまずくことができる。我々の理性がへりくだるとき、我々は礼拝することができる。しかし我々は、そのようなことは全くナンセンスであると言って拒否することもできる。ただしそのときには次のことを最後まで考え抜くことができない。我々が存在すること、世界が存在すること、我々と世界は虚無ではないということを(最後まで考え抜くことができないという点は、事実も同じである)。また、存在とは本来どのようなものであるのかという問題、すなわち存在の始源と終末について最後まで考え抜くことができない。そして今述べている、クリスマスの福音とは存在と神との仲保であるということについても最後まで考え抜くことができない。なぜなら、この点は神が人間になられたことにかかっているからである。このように我々は、キリスト教信仰をもってミステリアスな人生のすべてを巡り歩く。
しかしまた、我々は、クリスマスの日にも巡り歩くことができる。巡り歩くこと、それは祝祭的行為である。安息日には散歩を楽しむ。我々は安息日に散歩しながら、存在の喜びを静かに味わう。我々はそれをミステリアスに行うこともできる。ミステリーを静かに味わい、ミステリーのなかを巡り歩く。我々は「地上の人間は迷路の中をうろつくばかりだ!」 と嘆いたりはしない。そもそも我々はミステリーを克服したいと思わない。深淵の中にある存在から離れ去りたいとも思わない。我々が知っていることは、ミステリーの中にこそ我々の祝福があるということである。神が人間になられた。それは理解しがたいことではある。しかし、ともかく、神が人間になってくださったことによって、やっと、この地上の世界と時間とが空虚なものでも無意味なものでもなくなった。すべての時間が充実したものになった。すべての存在が良きものになってきた。それゆえ、我々は、このミステリーの中を巡り歩くことに飽き足りてしまうことなどありえない。わたしは、ただひたすら存在(zijn)であることを欲するばかりである。わたしは次のことを知っているからである。わたし、すなわち、イエス・キリストにおいて神によって受け容れられたこのわたしは、永遠から永遠に至るまで存在することができる。わたしには救い主がおられる。それは「わたしは救われている」という意味である。
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ベツレヘムとゴルゴタで生起した事実として唯一残っているのは、このことだけである。神がイエス・キリストにおいて人間になられた。しかし、このことにおいて生起した救いは、神が我々の人生に分け与えてくださるものである。すべての時代を通して力強く宣べ伝えられた御言が歩いてくる。世界宣教によって諸国のキリスト教化が起こる。キリストの体なる教会がたてられる。教会において、キリストにおける神が、我々のもとに御臨在くださる。教会では聖餐式が行われる。そのとき我々はパンとブドウ酒という具体的なものにあずかる。それによって我々は、歴史の中で実現された神の救いにあずかると同時に、この方自身の存在にあずかることによって神を賛美する。そして聖霊のみわざに関する一つの言葉が語られる。それは、我々の中でキリストが新しい形をおとりになるということであり、また逆さまに言えば、キリストが我々をキリストの形へと造りかえてくださるということである。これはある意味で「我々自身がキリストになる」ということである。我々はキリストの体になるとは言われているのだから。我々は「聖霊なる神の家」 である。
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しかし、わたしは、キリスト教の深遠なミステリーによって表現されてきた人類と世界の究極的目標のほうは信じていない。神は、我々が神になるために人間になられたのではない。イエス・キリストの位格における神性と人間性の結合は、事実の永続的な構造を表現しているわけではない。イエス・キリストにおいて生起したのは世界の葛藤(werelddrama)の最高地点ではなく、むしろ最低地点であった。神が人間になられたのは目的ではなく、一つの手段であった。すなわちそれは、人間の罪によって生み出されたありとあらゆる問題に対処するために神の側で用意してくださった緊急措置であった。そのため我々が「神が人間になられた」(God mens is geworden)と語ることはあまり適切な言い方ではない。我々が述べていることをより明確に表現するとしたら、「神の御言が肉になった」(het Woord vlees is geworden)ということである。それは、人類の罪に対する神の怒りという重荷を担ってくださるためであった。それゆえ最終的に起こることは、御子がその肉を再び脱ぐことができる日が訪れることである。そのとき人間は再び人間になることができる。天地万物の究極的目標とは何か。それは、純粋なる人間性(人間的なるもの)と地上の世界の居住可能性(住み心地の良さ)とが、保持され続けることである。
(『週刊エルセヴィア』1955年12月24日号掲載)
【出典】
A. A. van Ruler, Van schepping tot Koningkrijk, Nederlands Dagblad, Barneveld, 2008, p. 159-162.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 4A, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2011, p. 182-193.