セクシュアリティ(1949年)

A. A. ファン・ルーラー/関口康訳

「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト記20章14節)

第七の戒めは、姦淫というひとつの点について語っている。しかしそれは性生活(het sexuele leven)の全領域を見据えている。そのため私は、この戒めについて四つのことを語る。 

第一に、性生活は〔神が人間に与える〕最大の賜物(de grootste gave)である。神は人間を男女に創造された。両性を引き寄せる引力は神の力である。神は愛の戯れを喜んでくださる。彼らがひとつの肉体になることを神が求める。両性の一体性(eenheid)が結婚の核心であり、神のみわざであって、我々の理解力をはるかに越える。それゆえ結婚は主なる神を喜ばせる国家(staat)である。肉体もセックスも悪ではない。全く正反対だ。肉体こそ聖霊〔なる神〕がお住いになる神殿(tempel van den Heiligen Geest)である。このことを我々は正しく保持すべきである。人間は時折そこから解放されたいと願うほど、セクシュアリティを獲得するために奮闘しうる。しかし聖書は、それは〔神が人間に与える〕最大の賜物であることを保持し続ける。それは激情をもって全生活に流れている。

第二に、性生活は最大の力(de grootste macht)である。生のひとつの領域に過ぎないものではない。性生活こそ生の中心であり、生の核心であり、生の軸である。それ自体が無限に拡大し、人間のすべての生に浸透する。すべての生がエロティックなもので満ちている(Het hele leven is erotisch geladen)。たった一度の会話がそのうちこの力に関与する。それゆえ、性行為そのものから日常的なお付き合いまで、セクシュアリティには無限に多様な形がある。人間とその生はエロティックなものであるというこの明白な事実を否定したがるのは危険である。セクシュアリティは人間と神との関係においてすら深く作用し続ける。エロティシズムと宗教は緊密な関係にある。人間は相手の最深部で神を探す。神の中で自分のエロティックな緊張の解放と充足を求める。この程度のことで驚くべきではない。人間は自分の血の最も深く、最も暗い衝動において、神と格闘し、神へと至る。

第三に、性生活は最大の危険(het grootste gevaar)である。それは人を支配してしまう。最悪の残虐行為に駆り立てられてしまう。容易に最も不自然で醜悪な様相を呈してしまう。それは人を沈める流砂であり、人を流し込む深淵であり、人を焼き尽す炎であり、人が衝突して砕ける壁である。もし性生活を些細なものとみなすなら、良くない判断を下している。ロシアにしばらく「コップの水の中の嵐」という理論があった。もはや性の問題など何も無いという。西欧でも、結婚の形なき愛、三角関係、早期離婚、お友達意識の結婚など、あらゆる実験が始まっている。どの実験も、性生活において求められる根源的な力としての光を見誤っている。人間は性生活において神を探し、神と格闘する。その神は恐るべき力である。それゆえ人間は、セクシュアリティによって、身体的にも民事的にも精神的にも完膚なきまで破滅してしまう。

第四に、性生活は最大の仕事(de grootste taak)である。これはおそらく我々が次の事柄を見つめるべき最も重要な視点だろう。我々は性生活をやめてしまったり、それから逃げ去ったりすべきではない。しかし、その一方で、性生活の中で道を誤ったり、性生活を無駄にしたりすべきでもない。我々は性生活の営み方を勉強しなくてはならない。すべてのことに先立って性生活があり、結婚があり、その中に公務の担い手(ambtsdrager)がいる。言うならば、我々は結婚と性生活において地上における神のみわざを執行する。私見によれば、我々はすべての生とすべての現実において一貫してそのことに取り組まなければならない。しかしそのことは、生の核心としてのセクシュアリティという特別な意味でこそ語りうる。

それゆえ、結婚は〔神から〕与えられるもの(gegeven)である。結婚は恣意的な意思表示や性生活の一形態として理解されてはならない。むしろセクシュアリティの混沌(カオス)を統制する神御自身の秩序として理解されるべきである。結婚とは、その中で人が泣き叫び、また結婚した人間同士を統括する聖なる国家(een heilige staat)である。この聖域においては、人間が奉仕しなければならない。それは犠牲を携えてくる祭壇上の奉仕である。そこでひとりの人間が粉々に砕かれていないならば、結婚に人生の幸福を感じることはないだろう。そうでなければ愛を感じることはない。主なる神にとって重要なのは、我々が指先まで幸せを感じることである。しかし、だからといって我々は、だれにも邪魔されずに自分で完全な幸福を広げられると考えるべきではない。祭壇を経て、犠牲によって、粉々に砕かれることにおいてそうすべきである。そのときには人生を本当に愛することができる、純然たる幸福へと回復される。

結婚は原理的に切り離せない。離婚は違法行為ではないが、大変なことではある。結婚は神のみわざである。男女がひとりの人間になる。それは我々の理解力を越えている。それは深い眠りの中で現実に起こるもつれあいであり、創世記を用いて語れば、そのとき神は男性から女性を創造される。離婚すると裁判官の前での訴訟でも元に戻らない。そこに途方も無く多くの、生命を脅かす困難や複雑な問題があることを私は知っている。

セクシュアリティの全領域の至るところに、人間を捕獲するための罠やらバネ仕掛けやらが撒き散らされている。信仰と祈り、罪の赦し、御言葉と聖霊の教導、そして神の特別な祝福と犠牲の道。それらこそが、セクシュアリティの目的にかなって、我々の人生に幸福をもたらしうる。

【出典】
A. A. van Ruler, Verhuld bestaan, Nijkerk 1949, p. 207-209.