A. A. ファン・ルーラー/関口 康訳 (改訳中)
1947年11月3日、ユトレヒト大学オランダ改革派教会担当教授就任記念講演
どの学問分野でも言えそうなことだが、現代人の意識の細分化に直面して、自分が取り組んでいる学問的な専門分野と学問全体や文化との関係を明らかにする必要を感じている研究者や教師がいるのは、他のどこにも増して神学部である。一方で、この学部が取り組む研究の本質は、すべての時代に最も大きく最も深い問い、すなわち、神の御前で、世界の中で人間存在とは何なのかを徹底的に問うことである。この問題は神学の問題だけではなく、哲学の問題でもある。しかし他方で、神学には神学なりの固有の問い方がある。我々神学者は、我々らしい方法を用いて、現代社会を揺さぶっている学問の危機という問題にかかわる。
自分自身の専門分野と学問全体や文化との関係を考え抜くことの必要性は、私自身がこれから担当することになる聖書神学とオランダ教会史と宣教学という三つの講義の準備をしてきた中で、強く自覚させられたことである。今は、神学とはそもそも学問なのかと問われている時代である。そしてまた、学問と文化の関係が危機的状況に陥っている時代でもある。そのような時代の中で神学者が取り組むべきことは、神学と学問と文化を結び合わせ、まとめあげることである。
私が苦心したのは、聖書神学とオランダ教会史と宣教学という三つの講義をどうすれば調和させることができるのかという問題であった。具体的に言えば、信仰の父アブラハムと、この名門大学〔ユトレヒト大学〕神学部の歴史的創設者であるヒスベルトゥス・フーティウスと、オランダ改革派教会の宣教地であるパプアの人々を全く同一の視野の中で同時に見つめるにはどうしたらよいのかという問いであった。それは、夢追い人と揶揄されたフードマーカーの言葉を持ち出していえば、「使徒の福音」と「国家神学」と「全世界のキリスト教化」との関係は何かという問いでもあった。
このような我々の問題意識に対し、その必要を満たし、今後の方向を示し、さらにしっかりと全体をまとめていくための出発点として、「神の国」と「歴史」との関係を問うこと以上に良いことはありえないと、私は思い至った。「神の国」と「歴史」の関係を問うとき、我々の意識の中では、聖書と教会と宣教が、それぞれにふさわしい位置づけと役割をもっている。また、神学者が歴史の問題に真剣に取り組むならば、そのとき初めて、神学と他の学問との関係を明らかにすることができる。
(続く)
【出典】
A. A. van Ruler, Verwachting en voltooiing. p. 29-42.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk.